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トマス・アクィナス(上)

(光言社『中和新聞』vol.539[2000年7月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

中世スコラ哲学を完成
自然と啓示、理性と信仰を統一

 トマス・アクィナスは「スコラ哲学の王」「天使的博士」といわれたイタリアの哲学者、神学者です。アリストテレス哲学をキリスト教思想に調和させ、自然と啓示、理性と信仰を統一して中世スコラ哲学を完成させました。

 13世紀にはすべての真理は一つであり、哲学と神学、アリストテレスとキリスト教の間に何一つ重大な矛盾はないと信じられていました。中世の人々にとってキリスト教は無謬 (むびゅう)なものであり、アリストテレスは定評ある古代の権威だったのです。

 トマス・アクィナスの業績は、アリストテレスの世界観から重要な要素を取り入れながらも、基本的にはキリスト教の枠内に神学的、哲学的体系を作り上げたことにあります。多くの歴史家たちは、この体系を中世思想における最も重要な業績とみなしてきました。

 日本にトマスの名が伝えられたのは16世紀、カトリックの宣教師たち、とりわけドミニコ会に属する宣教師たちによってでした。

▲トマス・アクィナス(ウィキペディアより)

家族が猛反対

 トマスは1225年ごろ、イタリアの貴族の末子として、ナポリとローマのほぼ中央にあるロッカセッカ城で生まれました。56歳のころ、モンテカシノにあるベネディクト会修道院の付属学校で初等教育を受けた後、15歳ごろにナポリ大学へ入ります。

 5年間のナポリ生活で、彼の生涯に決定的な影響を与えた二つの出来事がありました。一つはアリストテレスの哲学との出会いであり、もう一つはドミニコ修道会への入会でした。

 ドミニコ修道会は新たに創立された托鉢(たくはつ)修道会の一つで、院内に閉居して瞑想生活をするよりも、俗世間での奉仕に重点を置いていました。

 トマスは家族の猛反対に遭いました。家族の者たちは、トマスを有名なベネディクト会の高位聖職者にならせることによって、一門の名声と富の増大を夢見ていたからです。

 トマスはナポリからアルプスの北へ向かう途中で兄たちに捕らえられ、監禁されました。家族たちは、いろいろな方法でトマスの心を変えようとしました。中でも、美女を雇ってトマスを誘惑させようとした話は有名です。この時トマスは突然情念がわき起こるのを感じましたが、燃えているまきを炉から取って女性を追い出しました。そしてそのまきで壁に十字を記し、床に伏して祈りました。1年がたち、それでもトマスは決意を変えなかったので許されて、ナポリのドミニコ修道会に戻ってくることができました。

 1245年から62年までの間、トマスはパリとケルンにあるドミニコ修道院で研究生活を送りました。

著作・講義・説教

 1252年以降はパリ大学で聖書注解、『命題集』注解の講義を行い、56年に学位を得て、神学部の教授として仕事を始めました。

 この第1回パリ大学教授時代は59年に教皇庁の神学顧問としてイタリアに呼び戻されるまで続きます。この時期に『対異教徒大全』(125964)の執筆に取りかかりました。この著作は主としてイスラム教徒に対してキリスト教の真理を弁証することを目指したものです。

 トマスは著作に際して、筆記者に口述するという方法を取っていました。このころから、トマスのかたわらには常に数人の筆記者がついていて、その著作活動を助けていました。トマスは34人の筆記者に、同時に異なることがらを口述しました。これらの筆記者のうちある者は単に筆記するだけでなく、ミサをささげるのを手伝ったりしました。ドミニコ会は「僚友」という制度を定めて、教授や研究に携わる者ができる限りその仕事に専念できるようにしていたのです。

 また神学教授にとっては、教壇で講義するだけでなく、教会で説教することも重要な職務でした。トマスは生涯を通じて絶えず説教しています。

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 次回は、「トマス・アクィナス(下)」をお届けします。