2024.11.09 22:00
ほぼ5分で読める統一運動 25
国際勝共連合の誕生
稲森 一郎
国際勝共連合は、世界の共産化を目指す国際共産主義との対決を本格的に出発する組織として創立されました。
韓国では1968年1月13日、日本では1968年4月1日に創立されます。
1919年に結成されたコミンテルン(Comintern、共産主義インターナショナル=第3インターナショナル)は、国際的な共産主義運動を志向したレーニンによって提案され、創立されたものですが、これによって、各国にコミンテルンの支部が置かれるようになり、一気に共産主義運動が世界に広まりました。
中国共産党は1921年にマルクス=レーニン主義を掲げるコミンテルンの中国支部として結成され、日本共産党は1922年11月に同じくコミンテルンの日本支部としてソ連の主導する体制の下に入ります。
つまり国際共産主義の総本山は、ロシア革命(共産主義革命)に成功したソ連であったということです。
コミンテルンは1943年5月に解散となりますが、世界中に広がった共産主義運動は1969年時点で世界75カ国に政治的影響をつくり出す共産党が活動する状況を生み出しました。
このような情勢下において、国際勝共連合が創立されたのです。
韓国においては北朝鮮が共産主義国家を樹立(1948年9月9日)していましたから、38度線を境界線とする緊張関係は並々ならぬものがありました。
1968年1月21日に起きた「金新朝事件」は、武装共産軍浸透事件として記憶されています。
このような事件に至った背景をWikipedia(「青瓦台襲撃未遂事件」の項)は以下のように記しています。
「1966年1月に韓国漁船が北朝鮮の魚雷艇に襲撃されて以来、同年11月と1967年4月には、北緯38度線で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。
…北朝鮮は1966年、朝鮮人民軍総参謀部偵察局内に対南工作を専門とした第283部隊を設立。内部粛清によって1967年8月12日に124部隊(のちに特殊第8軍団に改称、現在の軽歩兵教導指導局)に改編し、ゲリラ部隊を韓国に潜入させる準備を進めた。
1968年1月17日、青瓦台の襲撃による朴正煕大統領と閣僚の暗殺を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、韓国軍第26師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領内に侵入した。
…1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入した。しかし、先の市民の通報によるゲリラ情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。突入は阻止された。
韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名を逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。また射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。
…2週間の銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。
逮捕されたのは当時27歳の金新朝(朝: 김신조)少尉で、彼の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。
…『軍事独裁を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こす』と分析していたという。また、金はテレビカメラに向かって『私は朴正煕の首を取りにやってきた』と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた」
この事件の重大性は、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の暗殺を実行するゲリラ部隊が青瓦台まで忍び寄ったという事実です。
韓半島はそれほどまでに緊迫した情勢であったということであり、このタイミングで、くしくも韓国の「国際勝共連合」が創立されたということを銘記すべきでしょう。
勝共運動は、統一運動の最重要の側面であるといえます。