2024.11.08 12:00
誤解されたイエスの福音 4
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。
野村健二・著
第一章 イエスは神そのものか
一、パウロはイエスをどのように見ていたか
パウロは四福音書を読んでいなかった
実はパウロが生きていた時代にはまだ新約聖書はできていませんでした。それゆえパウロは自分の言うこととマタイによる福音書の「山上の垂訓」に載っているようなイエスの説教の内容とが矛盾していないかどうか、比較検討することができたかどうか分かりません。実際、次のような理由で、パウロが果たして使徒などイエスの弟子たちを通じて、「山上の垂訓」自体を聴き知っていたかどうかということさえもあやしいと疑わざるをえないのです。
福音書の成立年代はマルコによる福音書が最も古く、AD64年から70年ごろまでに書かれ、次がマタイによる福音書でAD80年代、ルカによる福音書がほぼ同時代(80年代)、ヨハネによる福音書が最も遅くAD100年前後に書かれたというのが定説です。ところがパウロはAD64年ごろに殉教したと見られているので、当然どの福音書も読んでいるはずがありません。また、後述するような理由から、イエスの具体的な業績や説教の内容を、イエスの弟子たちから聞いてどれだけ知っていたかどうかも、大変に疑問があるのです。
もちろんパウロは、当時最高の律法学者とうたわれたガマリエルに師事していた(使徒22・3)と言われますから、創世記には通じていたでしょう。しかし、人は「神のかたち」として創造されたのだから本来はすべて「神の子」であったなどという論理には、イエスの「山上の垂訓」のような具体的なものではないので、気づかなかったとしても無理からぬことだと思われます。
それにパウロは、「木にかけられた者は神にのろわれた者」(申命21・23)と律法に明確に記されているのに、まさに「木にかけられた者」であるイエスを、神が遣(つか)わされたキリストだと自らも信じ、ユダヤ人たちにも信じさせるためには、最大限の神聖化をする必要があったのだと思われるのです。しかしその神聖化は、「イエスの価値は神に等しい」というだけで十分であり、その「創造能力までも神に等しい」、いや「神そのものである」とする必要はなかったのではないでしょうか。
実はヨハネによる福音書も、このパウロの神聖化の影響を多分に受けていると見られる形跡があります。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1・1〜3)。
言に命があり、命は人の光であり、「世にきた。……そして、世は彼によって(太字は筆者)できたのである」(同1・9〜10)というのですから、これもイエスを創造能力においても完全に神と同一視しているわけです。
統一思想における神の構造の概念と対応づければ、この「言」は、神の内的四位基台の結実──「ロゴス」(新生体)に当たります。しかし、イエスをロゴスそのものと見ていいでしょうか。イエスが神のロゴスと等しい価値があるというのなら、妥当だと私たちは見ます。統一思想の生みの親である文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、「誰でも、自分の息子、娘が自分よりも立派であることを願う……そのような心は、神様から来たのです。……神様も、愛の相対(人間)が神様より立派であることを願っていらっしゃる(太字は筆者)」(『天聖経』「天一国主人の生活」2153頁)と言われ、神と等価値であるどころか、神よりもっと価値のある者となることを願われ、もしそうなったらどんなにうれしいかと、そうなることを待望しておられるとさえ言っておられるのです。
しかし、どんなに素晴らしい方とはいえ、マリヤから生まれた一人の人間であるイエスから「すべてのものができた」と言うことはできません。科学が未発達であった2000年前ならいざ知らず、どんなに偉大な方であったにせよ、肉身を持つ一人の男性であられたイエスが、歴史上の一時点で一対のDNA(この場合の男のDNAは聖霊ではなく特定の個人のものだと科学的見地から文鮮明師は明言されます)から発生した、一被造物以外の何ものでもありうるはずがないと、今日では断定できると統一思想は見るのです。キリスト教徒でも科学的素養を持たれる方は、この見解に賛同されるのではないでしょうか。
なお、ヨハネによる福音書の「アブラハムの生れる前から(太字は筆者)わたしは、いるのである」(8・58)というイエスの表現も、自分は宇宙に先立つ「ロゴス」という意味で言われたものだと多くの解説書には書かれていますが、これも「人間の始祖であるアダム(ただし無原罪の)の再来だ」という意味と見れば筋が通るのではないでしょうか。アダムは明らかにアブラハム以前にいたのですから。
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次回は、「パウロの来歴」をお届けします。