2024.11.01 12:00
誤解されたイエスの福音 3
アプリで読む光言社書籍シリーズとして「誤解されたイエスの福音」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
パウロのイエス観は果たして正しかったのか。イエス・キリストの再臨期を迎えた今、聖書の記述をもとに徹底検証します。
野村健二・著
第一章 イエスは神そのものか
一、パウロはイエスをどのように見ていたか
パウロが伝道するときに、イエスをどのように明かしたか。それを四福音書のイエスについての記述、旧約聖書で予示されたキリスト像、特にイエスご自身の言葉とされているものと比較してみることにしましょう。
パウロは、
「御子(みこ/イエス)は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも……みな御子にあって造られた……これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られた……彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ1・15〜17)と述べました。
しかし、福音書を見ると、イエスご自身が、自分を神様扱いすることを厳しく否定しておられるのを発見します。「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」(マルコ10・18)と。
この言葉について解説書、『新約聖書略解』には、「イエスの謙譲を示すものであろう」などと書かれていますが、この部分はどう見ても、「神」のみが「よい者」であり、したがって、私を「よい者」(神)と言ってはならぬと言っておられるのであって、先入観なしに読めば、“自分は神ではない”ときっぱり断定しておられるとしか思われません。
また、後で、詳しく触れますが、十字架刑を避けられない窮地に追いつめられたとき、イエスは、
「アバ、父(神)よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままに(太字は筆者)なさってください」(マルコ14・36)と必死に祈っておられます。
これは命が惜しかったのではなく、十字架の刑死によって神のみ旨(これはもともとはイエスがユダヤ教に歓迎され、それを足場にして神のみ意〈こころ〉のとおりに世界を統治することであったと統一思想は捉えます)が、挫折してしまうことが、あまりにも無念であったからだと思われます。しかし、(イエスにとって)「アバ(アラム語で父の最も親しい呼称)」である神とは考えが一致せず、必死に何とかしてほしいと訴えておられたことが、これから分かります。これでどうしてパウロの言うようにイエスが神と同一の存在だということができるでしょうか。
さらに十字架上で息絶える直前に、イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27・46)と叫ばれたと記(しる)されています。
イエスが神と同一なら、一体どうして神が神自身を見捨てることができたというのでしょう。解説書を見ると、これは詩篇22篇のダビデの歌の冒頭部分の引用で、通例、「信仰の表現」だと片付けられていますが、仮にそうだとしても、これが神とイエスが不可分一体であることを示すといえるのでしょうか。詩篇22篇のこの文章に続くところには、「なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」とあります。ダビデなら神と一体でないのは当然と思われますが、これと同じことを口にされたイエスも、やはり神と切り離された寂(さび)しい気持ち(詳細は、この先で分析します)を死ぬ間際にもらされたと見るのが自然だと思われるのです。
この指摘に対して、福音書に書かれているイエスは、神を常に「父」、ご自身を「人の子」と呼び、父が聖別して世につかわされた者が「わたしは神の子である」と言っても、どうして神を汚(けが)したことになるのかとも言われましたので(ヨハネ10・36)、「神の子」なら「神」と同じことではないかと反問されるかもしれません。
しかし、「山上の垂訓」を見ると、イエスは一般の聴衆に向かって、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子(太字は筆者)となるためである」(マタイ5・44〜45)と言っておられます。イエスは、ご自分だけでなく、すべての人が本来、「天の父の子」、すなわち「神の子」となりうるものだと思っておられたということがここから分かります。
そればかりではありません。「山上の垂訓」のもっと先を読むと、「あなたがたの天の父(太字は筆者)が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)とあります。イエスは一般の平凡な聴衆に向かって、当然のように、「神の子」どころか「神(天の父)」に等しい完全な者となれとさえ要求されているのを、ここで見いだすのです。
したがって、イエスが神の子であり、神と同質の完全性を備えられていたとしても、イエスが「万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」という意味での神と同質という根拠にはなりません。もし、完全であるためには万物より先にあった神的存在であらねばならないというのであれば、イエスは聴衆に、「万物よりも先に存在する者となれ」というような、全く不可能なことを要求しておられることになります。
イエスが、精子と卵子の受精によって誕生してこられたのだとすれば(そう見るべきかどうかは後で検討します)、無始無終の存在ではないのであって、万物より先にあったのではなく、ほかの人間と同じように万物より後に生じ、ただ“価値において神に等しい”といえるだけなのではないでしょうか。
さらに、聖書の冒頭の創世記を見ると、「神は自分のかたち(太字は筆者)に人を創造された」(1・27)と書かれています。「神のかたち」に創られたのが人間だとすれば、どの人間も本来は「神の子」であったと考えざるをえません。それがイエスだけが「神の子」だということになってしまったのは、後述するように、人間の始祖であるアダムとエバが堕落した天使長の惑わしによって神の戒めを破って堕落し、神がこの二人に与えた「神のかたち」(創造本性)を失い、統一思想の用語をもっていえば、神の性質とは全く異なる「堕落性」を持つようになってしまったからだとはいえないでしょうか。
もしそうだとすれば、イエスが神のかたちにだけ由来する真正の神の子だったとしても、神と等しい全宇宙を創造する力を持つ方だということにはならず、“神のかたちだけを備えた真正の神の子” “堕落していない真の人間”であって、それゆえに“神ご自身に等しい価値を持つ方”と見るのが正しい解釈なのではないでしょうか。
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次回は、「パウロは四福音書を読んでいなかった」をお届けします。