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宣教師ザビエルの夢 63

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第五章 律法の精神と現代日本への教訓

二、「姦淫してはならない」

姦淫は「憲法違反」
 このようなことを言うと、「そんな野蛮なユダヤ社会に抗して、イエスは律法を破棄し、姦淫(かんいん)の女を許したではないか」という反論が聞こえてきそうです。ところが、イエスの言動をみると、決して姦淫を容認してはいません。姦淫の女を前にして、悲しみをたたえたイエスの沈黙は、罪にまみれた人類の救いのために、その根源を断つべき、との主張を響かせているように思えます。そして石打ちを免れた女には、「これからは、もう罪を犯してはならない」と宣言して送り出すのです。

 この場に秘められたイエスの主張は、一つには「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(『新約聖書』マタイ528)であり、一つには「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(同、マタイ196)という言葉に現れてきます。

 この二つを併せ見るときに、イエスにおいて、姦淫の拒否は神による結婚・家庭の主張として、律法の根本より訴えかけられているようです。キリスト教においても姦淫を罪と定め、不倫を戒めてきたのは、裏返せば創世記に示されたアダムとエバの結婚を理想とし、神によって結ばれた結婚を聖なるものとして追求してきたからにほかなりません。

 今日、殺人が重大な罪とされるのは、個人の貴き生命を傷つけ破壊するがゆえです。それは人権の蹂躙(じゅうりん)であり、憲法違反だとだれもが認識しています。それでは、生命の根源を傷つけることに人々は、どれほど敏感でしょうか。一個の生命も、一組の男女が夫婦として愛に結ばれて、初めてこの世に誕生するものです。生命は、偶然や本人の意志だけで発生するわけではありません。

 不倫とは、その生命の源となる愛の破壊です。子供にとってみれば、自分自身の生命の根源、存在の基となる父母を引き裂かれ、破壊されることになります。

 ユダヤ・キリスト教の伝統においては、結婚は神聖なものであり、そこから生まれる家庭は健全な社会の基盤、「神の創設した生命と愛の共同体」であるといいます。そして、「夫婦は互いに愛を深め聖化するものであり」、「子どもの出産と養育において夫婦は創造のみ業に参与している」という、聖なる結婚、聖なる家庭の理想を主張してきました。(「現代世界憲章」、南山大学監修、『公会議公文書全集』中央出版社、1969年)ですから、そのような理想を打ち崩す姦淫を、罪と定めてきました。結局、不倫・姦淫は夫婦の愛の蹂躙であり、生命の根源を破壊せしめるものであり、一層大きな罪となるのです。それは、まさに「憲法違反」なのです。

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 次回は、「隣人愛のはかり」をお届けします。


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