2024.10.10 22:00
柳寛順(下)
『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)
韓国の自主独立を訴える
死ぬまで叫び続けた「独立万歳!」
父母が銃弾に
「大韓独立万歳」蜂起の当日、正午の並川市場には続々と人々が詰め掛け、約3000人もの大群衆になりました。独立宣言が高らかに発表された後、柳寛順(ユ・グァンスン)は訴えました。次のようなものだったとされています。
「私たちは4000年の歴史を持つ独立国家の民族です。しかし日本の弾圧を受け国を失い、10年もの間、耐えに耐えてきました。…この日この時、私たちが沈黙している場合ではありません。去る3月1日、ソウルでも自主独立国家であることが高らかに宣言されて、いまや大韓独立の叫びは、三千里の村々にまでこだましています。…皆さん、私たちもここから万歳(マンセー)の声を上げましょう」
演説を終えた寛順は大きな声で「大韓独立万歳!」と叫びました。何もかもが予定通りにうまく進行していました。
しかし「憲兵分遣所へ行け!」とだれからともなく声が上がりました。群衆が太極旗を振り、口々に「万歳」を連呼しながら、分遣所前の広場に着いた時のことです。ねらいを定めた憲兵隊が群衆に向かって一斉に射撃してきました。デモの先頭にいた2人が銃弾に倒れました。その1人が父・重権(チュンゴン)でした。
この事態に群衆は四散しましたが、寛順は逃げませんでした。一同が再び分遣所に押しかけた時、天安憲兵本部から20~30人の救援隊がトラックでやってきました。彼らは刀を抜き、無差別に発砲しました。並川市場周辺はむごたらしい修羅場になりました。母・李少悌(イ・ソチェ)はピストルで撃たれ、寛順と兄は逮捕されました。
彼女が最初に留置された所は天安警察本部でした。拷問に次ぐ拷問で全身傷だらけになりました。「運動をそそのかした奴はだれだ」という憲兵に対して「みんな私1人でしたことです」と言い続けました。手を焼いた憲兵は彼女を公州の検事局へ引き渡します。
六切りにされ獄死
その後、ソウルへ移された彼女は護送車の中からも窓越しに町中の雑踏に向けて「大韓独立万歳!」と叫びました。西大門刑務所でも朝に夕に「大韓独立万歳!」と叫ぶのを日課としていました。のどの張り裂けるような声だったといいます。駆けつけた看守から散々な目にあい、体中が傷だらけになりました。
そんな彼女を見るに見かねて、囚人の1人だった梨花学堂(現在の梨花女子大学の前身、梨花女子高校)の恩師が国の独立も大事だが、自分の体も大事にしなければと諭したこともありました。しかし、彼女はやめようとしませんでした。もう自分の最期を覚悟していたのかもしれません。
1年が過ぎて運動にかかわった学生たちのほとんどが釈放されましたが、彼女だけは別でした。
連日にわたり鞭で打たれ続けてきた生傷は血と膿にまみれていきました。夏から秋にかけて体はみるみる衰弱していきました。
兄の寛玉(グァンオク)が面会に来た時、やつれ果てた寛順はかすれ気味の声でこう言ったといいます。「大したことはできなかったけれど、自分なりの義務を果たしたと思います」。1920年10月、柳寛順は栄養失調と病気の果てに、体を六つに切られて殺されました。
寛順が後の韓国政府から建国功労勲章扱いになったのは1962年のことです。囚人番号31。西大門独立公園(西大門刑務所跡)に掛けられている寛順の写真の下には、彼女の言葉が刻まれています。
「あなたの一番の夢はなんですか?——韓国の独立です。あなたの二番目の夢はなんですか?——韓国の独立です。あなたの三番目の夢はなんですか?——韓国の独立です」
---
次回は、「アッシジの聖フランシスコ(上)」をお届けします。