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柳寛順(上)

(光言社『中和新聞』vol.535[2000年5月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

韓国のジャンヌ・ダルク
「大韓独立万歳」運動の先駆者

 三・一独立運動の時、17歳で日本軍に逮捕され、拷問の末に死んだ柳寛順(ユ・グァンスン)。「愛国の烈士(勇士)」「韓国のジャンヌ・ダルク」といわれています。韓国ではだれも知らない人がいません。

▲柳寛順(ウィキペディアより)

梨花学堂で学ぶ

 柳寛順は19021216日、韓国忠清南道天安郡龍頭里に生まれました。父は柳重権(ユ・チュンゴン)、母は李少悌(イ・ソチェ)です。

 柳寛順が生まれた時には、既に日露戦争が始まっていました。日本は日韓議定書を押し付け、朝鮮半島を日本の軍事占領下に置きました。1905年には第二次日韓協約(乙巳保護条約)が調印され、韓国の外交権は完全に奪われてしまいました。

 ひなびた村にも、暗雲が垂れ込めていたのです。そんな中、父の柳重権は学校に行けない子供たちのために、小さな学校を設立しました。私塾のようなものです。しかし生徒は思うように集まらず、食うや食わずで学費も払えない家が多かったので、経営はたちまち傾いていきました。

 結局、学校は人手に渡り、300円もの借金が残ってしまいました。その金はあいにく日本人から高利で借りたもので、元金は1年もしないうちに10倍にも膨らみました。返済を迫る高利貸の追及は厳しく、毎日来ては脅し、殴り、あげくの果ては重権を逆さに吊るしたり、水をかけたりするのでした。

 1910822日には韓国併合条約(日韓合併ニ関スル条約)が強制的に調印されました。この日以来、朝鮮は国を失い地図から消され、完全に日本の植民地となってしまいました。朝鮮総督府が置かれ、軍隊と憲兵警察による暴力的な支配が行われました。

 柳寛順は最初のころ、父の創設した学校で学んでいたといわれています。その一方で教会の日曜学校に通っていました。ある日のこと、アメリカ人宣教師サー婦人が教会を訪れ、黒いつぶらな瞳の柳寛順に注目しました。そしてソウルの梨花学堂(現在の梨花女子大学の前身、梨花女子高校)で学ぶことを強く勧めました。こうして少女は学費免除の校費生として、都会の名門校に入ることができました。寛順が13歳の時でした。

 当時の梨花学堂は、アメリカ式女子教育を取り入れた近代的な学校で、少女たちの憧れの学び舎(や)でした。ことにひなびた村からやってきた柳寛順にとっては、目新しいことばかりだったでしょう。

 しかし壁の外では日本の収奪と圧政は度をますばかり。土地を奪われ、言葉を奪われ、名前を奪われ、耐えに耐えてきた民族の思いがついに爆発しました。191931日、三・一独立運動が起こったのです。ソウルのパゴダ(タプコル)公園で太極旗を振りながら「大韓独立万歳!」と叫び、デモ行進して、「朝鮮独立」を世界に宣言しました。各国領事館に文書を渡し、パリ平和会議にも代表を送りました。

独立を説いて回る

 約2か月の間に「独立万歳」の声は、あらゆる階層の人々に響き渡り、大きなうねりとなって、全国に広がり、1年間に1000万人の民衆が参加しました。

 このパゴダ公園の決起集会には柳寛順は参加しませんでした。日本官憲の弾圧を予期した学校側がいち早く門を閉め、生徒の出入りを禁じたからでした。寮の窓からその気配を感じるだけだった彼女は、総督府によって学校が休校にさせられると、故郷に帰ってきました。

 それから彼女のすさまじい活動が開始されたのです。地域の有力者を戸別に訪問しては、独立運動の必要性を説いて回りました。それで蜂起日は41日、大勢の人が集まる並川市場でと決まりました。そのために前夜、梅鳳山に上がる烽火を決起の合図とする密書が、各部落の有力者へと飛びました。

 大量の独立宣言書が刷られ、ひそかにどの家でも示威行為のための太極旗が作られました。いよいよ明日が決起の日という前夜、柳寛順はひとり山道を登って、暗闇の頂上へとたどりつきました。午前零時ちょうどに寛順はたいまつに火をつけました。すると山の峰の四方八方から烽火が上がりました。あちらこちらからいっせいに上がり、24か所にもなったといいます。

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 次回は、「柳寬順(下)」をお届けします。