2024.09.26 22:00
安重根(下)
『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)
韓国独立の大義に殉死
獄中で『東洋平和論』執筆に着手
伊藤博文を殺害
1908年、30歳の時には約300人の義兵を募り、国境を越えて進撃します。一時は日本兵数人を捕虜とする戦果を上げますが、捕虜は回心させて、武器を持たせたまま解放しました。ところが日本軍の反撃に遭い、義兵は壊滅してしまいました。
九死に一生を得た安重根(アン・ヂュングン)はロシア領に戻り、再起を図ります。31歳の時には、重根を中心に12人の同志が集まり、指を切り落として太極旗に「大韓独立」の文字を血書しました。
1909年10月、重根は伊藤博文がハルビンを経てウラジオストクに来るという噂を聞きました。そして伊藤殺害の挙に出たのです。
この事件は全世界に衝撃を与えました。とりわけ絶望的な闘いを続けている韓民族には、勇気と希望を与えました。しかし安重根の義挙に対して、韓国内でただひとつ背を向けた者がいました。カトリック教会です。その中で洪神父だけが重根の行動に理解を示していました。
重根は旅順刑務所に収容され、裁判は異例の早さで進められました。法廷での彼の態度は堂々としたもので、次のように証言しています。
「今回の凶行は私一個人のためにしたのではなく、東洋平和のためにいたしました」
重根は国際裁判によって、伊藤殺害の理由を世界に明らかにすることを求めましたが、小村寿太郎外務大臣の指令により政治裁判となって、死刑の宣告を受けました。
洪神父は大主教からの破門の警告にもかかわらず、旅順刑務所内で死刑を待つ重根に聖体授与式を行いました。
重根は刑務所内で静かに十字架に祈るとともに、『東洋平和論』の執筆に取り掛かりました。彼は「中国、日本、韓国、ビルマ、タイの国々が、みな自主独立していくのが平和である。一国でも自主独立できなければ、東洋平和とはいわない」という考えを持っていました。
刑務所で揮ごう
判決後、平石高等法院長は数か月の時間があることを明言していましたが、1か月半足らずで処刑され、重根が完成を望んだ『東洋平和論』は、序と第1章の途中までで未完成に終わりました。
5か月の短い旅順刑務所生活で安重根は、自身の内面を深く掘り下げていったのでしょう。毎日わずかな時間でも筆を持ち、詩を作りました。3月に入ってからは揮ごうを書き始めました。
「丈夫雖死心如鉄 義士臨危気似雲」(ますらおは死にのぞんでも心は鉄の如く、義士は危きに臨んでも心は雲に似て悠々としている)
「東洋大勢思杳玄 有志男児豈安眠 和局未成猶慷慨 政略不改真可憐」(東洋の大勢を思うとはるかにくらく 志ある男子はどうして安眠できようか 平和の時勢は成らずなげかわしい 政略を改めないのは真に憐れむべきである)
最後の書は「敬天」
旅順刑務所においては日本人の職員も、争って安重根に書を求めるようになりました。
彼の人格、愛国心、そして東洋平和、韓国独立の大義に殉死しようとしている姿に強く心打たれたのです。
処刑の朝、安重根は看守に「天国でお会いしましょう」という言葉を残して刑場へと向かいました。
重根の最後の書は「敬天」でした。韓国の大義に生きた安重根が最後に帰る所、それは「天」であり、「神」だったのです。
1993年、伊藤博文暗殺から84年後、殺人者としてカトリック教団から信者資格をはく奪されていた安重根は、正式にキリスト者としての復権を認められました。
安重根義士の記念館とその銅像は、かつての植民地時代、天照大神と明治天皇を祀る朝鮮神宮があったソウル南山(ナムサン)に建っています。
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次回は、「柳寬順(上)」をお届けします。