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安重根(上)

(光言社『中和新聞』vol.533[2000年4月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

韓国独立運動の先駆者
聖書に触発され民族の救い求める

 19091026日、ハルビン駅(旧満州・中国東北部)のプラットホームで日本の筆頭元老伊藤博文に3発の弾丸を命中させて死亡させた「大韓国人」安重根(アン・ヂュングン)。

 彼は死刑の直前、看守に「親切にしていただいたことを心から感謝します。東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえった時、生まれ変わってお会いしたいものです」と語りました。

▲安重根(ウィキペディアより)

カトリック信者に

 安重根は187992日、裕福な両班の家系に長男として生まれました。祖父仁寿(インス)と父泰勲(テフン)から、かなり高度な漢学の訓育を受けていたことは、獄中で書いた自叙伝と、200枚に及ぶといわれている揮ごうの見事さとが示しています。文士として身を立てることを期待されていましたが、7歳のころから騎馬や弓に打ち込み、武人気質を持っていました。

 親日派の魚充中(オ・チュンヂュン)ら高官が権力によって安家の財産を狙い、迫害を加えてきた時、重根は父とともにカトリックの教会に逃れました。そこでフランス人神父ウィルヘルム(中国名洪錫九)の感化を受けて1897110日に受洗し、安多黙(トーマス)として布教活動に専心することになります。同時に洪神父からフランス語と新学問を習いました。

 重根が洪神父とともに大学の建設が必要であることを大主教に説いた時、信仰のためには教育は必要ないと言われました。そのとき白人の韓民族への差別を感じて、始めていたフランス語の勉強をやめてしまいます。聖書によって触発された重根の民族心と民主精神は、フランス人大主教の偏見を赦すことができませんでした。

 安重根が日本と韓国の関係に危惧の念を抱くようになったのは、日露戦争が始まった時のことです。洪神父からどちらが勝っても、韓民族の将来が危険になると教えられたのでした。それまであまり時事問題に関心のなかった重根が熱心に新聞を読み、歴史を研究するようになりました。

独立目指し上海に

 重根は日清戦争の開戦詔勅に「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」とあることを知り、日露戦争の詔勅も同じ内容であると信じていました。しかし日露戦争後、伊藤博文が京城(現ソウル)に乗り込んで来て、韓国の皇帝をおどして無理やり日韓保護条約に調印させ、韓国の外交権を奪い、植民地化に踏み出しました。重根が抗日運動を始めたのは、その後のことです。

 重根は父と相談して韓国独立の態勢を整え、日本の不法侵略を世界に訴えるため、上海に出掛けました。そこで韓国人有力者の協力を求めましたが、いずれも断られ、前途に希望を失ってしまいます。

 そこで旧知の神父に出会い、韓国にとどまって教育、経済の発展、人心の一致、実力の養成に努めるべきであると勧告されました。帰国すると、病床にあった父は死んでおり、重根は一家を支える家長になりました。

抗日闘争を展開

 父の葬儀を済ませた後、清渓洞から鎮南浦に引っ越し、私財を投じて三興(興国、興氏、興士)学校と敦義学校を建て、青少年の育成に努めました。重根は教育事業を支える資金を獲得するために、平壌に赴き、炭鉱を経営しようとしますが、日本人の妨害にあって、数千ウォンの損失を出して失敗しました。

 当時、キリスト教指導者の多くは、国民を教育し啓蒙することによって、将来の独立に備えようとしました。安重根も第一に育英事業、第二に産業の振興、第三に抗日運動を主張しました。

 1907年夏、伊藤博文はハーグ密使事件を理由に、韓国の高宗(コヂョン)皇帝を退位させ、皇太子への譲位の詔勅を出させました。反対運動が起こると、日本軍隊を出動させて鎮圧し、「兵制改革のため」と称して、軍隊を解散させ、軍事権を奪ったのです。

 重根は全国に広がる義兵運動に呼応するため、29歳でウラジオストクに赴きました。そして大韓義勇軍参謀中将兼特派独立隊長として、し烈な抗日闘争を繰り広げました。

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 次回は、「安重根(下)」をお届けします。