2024.09.12 22:00
アルベルト・シュバイツァー(下)
『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)
アフリカの病院を再建
ノーベル賞受賞金を改築費に
捕虜収容所に
医者の資格を得たアルベルトは翌年、ヘレーネと結婚し、アフリカに渡る準備を始めました。そして1913年4月、二人はランバレネに到着しました。
到着した翌朝、目を覚ましてみると、外で患者たちが列をなして待っていました。太鼓を鳴らしながら情報を伝える「ジャングル通信」がシュバイツァーの到着を知らせていたのです。夫妻はさっそく仕事を始めました。
一人の患者が診察を受けに来ると、必ずその家族たちもついてきます。治療をスムーズに行うため、「病院のそばでつばを吐かない」、「待っている人たちは大声でしゃべらない」などの病院規則を作りました。治療のお礼として患者たちは、お金や卵、ニワトリ、バナナなどを持って来ました。
1914年、シュバイツァー夫妻はドイツとフランスが戦争をしていることを知りました。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)です。その夜フランス軍がやってきて、二人は捕虜になりました。
その後、一時病院は再開されますが、とうとうシュバイツァー夫妻はアフリカから連れ出され、南フランスの捕虜収容所に入れられてしまいました。
1918年7月になってようやく釈放され、ギュンスバッハに戻ることを許されました。
釈放された時、アルベルトは赤痢にかかっていた上、腸が膨れあがっていました。ヘレーネはすっかり体力が弱り、一生病弱な身で過ごさなければならなくなりました。
ギュンスバッハに帰ると、アルベルトの母がドイツ騎兵隊の軍馬に踏み殺されたことを知らされました。
失意の中で、たった一つうれしいことがありました。それは1919年1月14日、娘のレナが生まれたことです。しかし母が考えられないような死を遂げ、アフリカの夢が破れた今、シュバイツァーは深く落ち込む以外、なす術(すべ)がありませんでした。
この苦境を救ったのはナザン(ナータン)・ゼーデルブロムというスウェーデン人でした。彼はウプサラの大司教で、シュバイツァーをウプサラ大学の講演者として招いたのです。シュバイツァーは元気を取り戻し、再びアフリカへ行く夢を描きはじめました。しかしヘレーネは健康がすぐれず、レナの世話もあるので、アルベルト一人でアフリカに戻ることになったのです。
1924年4月19日、シュバイツァーは再びランバネにやってきました。病院は廃虚となっていました。シュバイツァーは治療をするかたわら、時間を見つけては病院の建て直しに取りかかりました。再建した病院はすぐに手狭になり、シュバイツァーは3キロ離れたランバレネ島近くのオゴウェ川の岸辺に病院を移しました。
欧州で維持費を
1927年夏に、シュバイツァーはヘレーネとレナのもとに一時帰国します。それから彼はヨーロッパとアフリカを行ったり来たりするようになりました。アフリカでは病院を建設し医者として働き、ヨーロッパでは病院の維持費を作らなければなりませんでした。そのためにオルガン演奏会を開いたり、本を書いたりしました。また講演をしたり、賞や名誉博士号を受けるために世界各国を回りました。
1939年1月、戦争の勃発を予期したシュバイツァーは、必要なものを買えるだけ買うと、ランバレネに帰りました。ヘレーネもドイツ軍占領下のフランス本土から逃れ、ランバレネの夫のもとにやってきました。
1952年に授与されたノーベル平和賞の賞金は、ハンセン病患者隔離村の改築に使われました。
そして1959年12月、ランバレネを訪れたのが、彼の最後の旅となりました。1965年9月4日、シュバイツァーは永遠の眠りに就きました。死後何週間も、どこからともなく人々が集まってきては、シュバイツァーに感謝の歌をささげました。
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次回は、「安重根(上)」をお届けします。