https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=25584

アルベルト・シュバイツァー(上)

(光言社『中和新聞』vol.531[2000年3月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

名声をなげうちアフリカに
医者として密林で生涯を送る

 1913年のことです。アフリカのジャングルの病院で、一人のドイツ人の医師が黒人の患者の手術をしていました。病院といっても鳥小屋を改造した小さな掘っ立て小屋です。

 そばでは助手のジョセフが器具を熱湯消毒し、医者の奥さんが患者に麻酔をかけていました。

 この医師こそがアルベルト・シュバイツァーです。40歳足らずの若さで既に得ていた音楽家、宗教家、著述家としての名声をすべてなげうって、医者としてアフリカに渡りました。

 シュバイツァーがアフリカで出会った病気は、マラリア、ハンセン病、熱帯性赤痢、ヘルニアなどでした。ヘビや猛獣に襲われた傷を手当てすることもしょっちゅうでした。

 病院ができてから9か月間に7000人近い患者が診察され、1940年代後半には年間約5000人が病院を訪れました。

 当時アフリカには整備された道路もなければ、電気も学校も町もありませんでした。シュバイツァーがフランス領赤道アフリカ(現ガボン共和国)のランバレネに建てた病院は、診察室のついた村といった感じでした。

 病棟はなく、たくさんの小部屋に仕切られた長屋がいくつも並んでいました。地面はでこぼこで、そこら中を動物たちが自由に行き来していました。

 以後50年間、シュバイツァーはこのジャングルで医者としての生涯を送ったのです。

音楽家、神学者

 アルベルト・シュバイツァーは1875114日、フランスとドイツが国境を接するアルザス地方の町カイザースベルクに生まれました。

 アルベルトは頭のいい少年で読み書きは自然に覚えました。また父からオルガンの手ほどきを受け、父親が牧師を務めるギュンスバッハ教会のオルガン奏者になりました。やがて自分で作曲をするようにもなりました。子供の時から音楽と同じくらい宗教にも魅力を感じていました。

 1893年、アルベルトはストラスブール大学へと進みました。音楽を専攻するか宗教を専攻するか迷ったアルベルトは、結局、神学と哲学を選択し、98年の5月には神学で学位を取りました。

 その後、哲学の勉強を始めますが、牧師になる夢を捨てられず、1899年聖ニコライ教会の副牧師になります。牧師の仕事と並行して神学の勉強を続け、1900年には神学の博士号も取りました。

 1902年には大学で宗教の講義を始めました。

 28歳からは毎年パリへ行き、パリ・バッハ協会の定例コンサートでオルガンを演奏しました。やがてヨーロッパ中でバッハを演奏するシュバイツァーを見かけるようになります。またオルガンを弾くだけではなく、その製作と修理にも取り組みました。

 シュバイツァーは有名にはなりましたが、心の中では深く思い悩んでいました。自分の生活が尊敬するイエスの生涯とは大違いだったからです。自分が苦しむことになろうとも世の中の不幸を少しでも減らさなければならないと思っていました。

30歳から医学を

 1904年の終わり、パリ伝道協会が発行している最新号の雑誌を開いた時のことです。「コンゴ(現ガボン共和国)の宣教師が望んでいるもの」という記事が目に止まりました。記事はこの地方で見られる恐ろしい病気について述べ、ぜひとも医者が必要だと訴えていました。「これだ」と思ったシュバイツァーは、医者としてアフリカに行くことを決意しました。

 しかし、シュバイツァーは天才的な音楽家であり、神学者であって、医者ではありませんでした。30歳にして今までの大学のポストをやめ、医大生として大学に通うようになったのです。アルベルトの家族や友人たちは、なぜいまさら危険なアフリカに行くのかと反対しました。しかしアルベルトの決意は固く、190510月から7年間、医者になる勉強を続けました。

---

 次回は、「アルベルト・シュバイツァー(下)」をお届けします。