2024.08.29 22:00
マーティン・L・キング(下)
『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)
人種差別撤廃運動を展開
黒人の公民権を勝ち取る
バス・ボイコット
キングは1947年に父の教会で牧師になり、54年アラバマ州モントゴメリー(モンゴメリー)にあるバプテスト教会の牧師に就任しました。前年の53年にはコレッタ・スコットと結婚しています。
事件が起こったのは、1955年12月1日のことでした。ある年配の黒人女性が勤め先のデパートで1日の仕事を終え、疲れて定期バスに乗ると、運転手から白人に席を譲るように命じられました。それを断ったところ、市条例違反ということで逮捕されてしまったのです。
それまで忍耐に忍耐を重ねてきた黒人たちの中に、もう我慢できないという思いが噴出し、バス・ボイコット運動が発案され、キングを含む黒人牧師たちに指導が要請されました。
早速キングが会長になってモントゴメリー改善協会が結成され、バス・ボイコット運動が始まりました。モントゴメリーに住む5万人の黒人たちは徒歩で、あるいは車で相乗りしたりしながら、学校や職場、教会に通いました。
それ以降、キング家には脅しや嫌がらせの電話がかかるようになりました。キング自身、わずか5マイル(約8キロ)のスピード違反で逮捕され、投獄されることもありました。そしてついには自宅に爆弾が投げ込まれたのです。幸いけが人はありませんでした。
こうした逮捕や暴力行為は、かえってキングたちの結束を強め、非暴力運動への情熱をかきたてる結果になりました。バス・ボイコット運動は1年あまり続けられ、ついに連邦最高裁がバスの人種差別を規定しているアラバマ州ならびにモントゴメリー市の法規を憲法違反であるとの判決を出したのです。
これは米国の黒人解放史上で最も輝かしい成果の一つでした。そしてキングは20代後半の若さで一躍黒人指導者として、内外から脚光を浴びるようになったのです。
暗殺される
1960年代になると、それまで散発的に起こっていた人種差別撤廃運動が全国的に展開されるようになりました。キングは南部の約100に上るキリスト教会関係グループを糾合して「南部キリスト教指導協議会」を結成し、みずからその議長となってキリスト教に基づく非暴力主義の人種差別撤廃運動を推進しました。
その運動は黒人老若男女が南部各地の街頭を大挙してデモ行進し、抗議集会を開いて人種差別の撤廃を要求したり、黒人市民がバス・ボイコットを行うという形式をとりました。運動が功を奏して、1964年には公共施設使用や就職に関する差別を撤廃する「公民権法」が、翌65年には選挙権行使上の差別をなくす「投票権法」が成立しました。
法律的、政治的な面では成果が上がってきました。次は黒人の経済的地位向上が大きな課題となりました。それには折からのベトナム戦争の泥沼化と、そのための米国政府の支出増大が大きな妨げになりました。
キングは黒人、白人の別なく、戦場においても国内においても、貧乏人が最も重い負担を負わされていると考えました。これ以後、彼は反戦平和運動を強力に推進するようになります。キングにとって公民権運動と反戦平和運動は、同じ原点から発したものであり、同時に推し進めなければならないものでした。
しかし残念なことに道半ばにして終わってしまいました。キングは1968年4月4日、テネシー州メンフィス市で暗殺されたのです。抗議運動を指導するため、同地のモーテルに到着し、2階のバルコニーで仲間と打ち合わせをしている時、ライフル銃で狙撃されました。
前日、キングが最後に行った演説はあたかも自分の運命を予感しているかのようなものでした。
「神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方を見渡すことができた。私は約束の地も見た。しかし私は皆さんと一緒にその地に到達することはできないかもしれない」
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次回は、「アルベルト・シュバイツァー(上)」をお届けします。