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マーティン・L・キング(上)

(光言社『中和新聞』vol.529[2000年2月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

愛と非暴力で黒人解放運動に一生をささげる

人種差別を知る

 マーティン・ルーサー・キング牧師は、39歳という若さで凶弾に倒れるまで、米国の公民権運動、黒人解放運動に一生をささげました。1964年にはノーベル平和賞を受賞しています。

 米国では1986年以来、彼の誕生日(1929115日)を記念して、1月の第3月曜日を国民の祝日として祝うようになりました。

 キングはジョージア州アトランタ市でバプテスト教会の牧師マーティン・ルーサー・キングの長男として生まれました。母方の祖父AD・ウィリアム牧師は「米国黒人地位向上協会」の指導者の一人で、父マーティンも黒人教師の給与を白人と同等にさせる運動を指導していました。キングには生まれながらにして、黒人解放運動家の血が流れていたといっていいでしょう。

 キングが人種差別のことを初めて知ったのは6歳の時でした。白人の遊び仲間で雑貨屋の息子だった子が、自分と遊ぶのを親から禁じられたのです。キングの母親は彼に人種差別について話し、「このような制度が存在しようとも、決して劣等感を持ってはいけない」と言い聞かせました。

 そのころのアメリカ、特に南部の州の黒人差別はひどいものでした。黒人は白人と同じ学校に行くことができませんでしたし、家も白人居住区には建てることができませんでした。汽車やレストラン、バスでは黒人と白人の席が分けられていました。またKKK(クー・クラックス・クラン=南北戦争後に結成された白人のプロテスタント教徒による秘密結社。反黒人、反ユダヤ、反力トリックを掲げる)が白いガウンと頭巾を身に着け、町を巡っては十字架を焼き、黒人をむち打ちました。時には殺すことさえありました。

ガンジーに学ぶ

 キングの父は、最初から彼が牧師になることを望んでいましたが、彼は医学か法律を学びたいと思っていました。しかしアトランタにある黒人専門のモアハウス大学に通っているうちに、学長BE・メイズ博士の感化を受け、牧師になろうと思うようになりました。

 そのためモアハウス大学を卒業後、クローザー神学校(ペンシルベニア州)、ボストン大学などで神学や哲学を学びました。

 学生時代、キングは「宗教にたずさわる人は、人々の魂と考えをより良いものにするだけでなく、人々の毎日の生活も幸せで素晴らしいものにするよう努めなければならない」と説くラウシェンブッシュから強い影響を受け、社会的実践活動の基礎を築きました。

 またインドの偉大な指導者マハトマ・ガンジーからも大きな影響を受けました。キリスト教的平和主義を黒人解放運動にどのように生かしていったらよいかについて教えられたのです。彼は後に『自由への大いなる歩み』の中で次のように述べています。

 「おそらくガンジーはイエスの愛の倫理を単なる個々の人間の相互関係から、強力で効果的な社会の力にまで大きく発展させた最初の人物である。私がここ何か月もかけて求め続けてきた社会的な変革の方法で『これだ』と思ったのは、ガンジーが強調しているこの愛と非暴力の方法であった」

私には夢がある

 私には夢がある。それはいつの日か、ジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫と奴隷主の子孫が、一つのテーブルで兄弟のように食事ができるようになることである。…

 私には夢がある。それはいつの日か、私の幼い4人の子供たちが、肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。…

 いつの日か、幼い黒人の子と幼い白人の子が手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである。

1963828日、キング牧師はワシントンのリンカーン記念堂で「私には夢がある」という演説を行いました。そこには米国中から25万人の人々が集まり、そのうち4分の1以上は白人でした)

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 次回は、「マーティン・L・キング(下)」をお届けします。