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ジャン・カルヴァン(下)

(光言社『中和新聞』vol.528[2000年1月15日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

ジュネーブを改革
規律と秩序と清潔の模範に

教会政治を実現

 カルヴァン不在の間、ジュネーブは政治・宗教の両面で混沌(こんとん)としていました。そこに目をつけたサドレ枢機卿は、ジュネーブをカトリックに復帰させようとたくらみましたが、カルヴァンの一通の書簡によって挫折しました。カルヴァンの帰還を要請する公式の書簡や代表団がジュネーブから送られ、カルヴァンはしぶしぶ同意して1541913日、ジュネーブに戻りました。

▲ジャン・カルヴァン(ウィキペディアより)

 彼は独自の改革計画を実行に移しました。ストラスブール滞在中真剣に練り上げた教会政治の形態を完全に実現しようとしたのです。

 こうして採用された「教会規則」は、その後ヨーロッパ、イギリス、およびアメリカの改革派(長老派)教会の政治組織に影響を与えました。その顕著な特徴は「四聖職」(牧師、教師、長老、執事)、および長老会議(牧師と長老で構成)といわれる指導者集団にあり、長老会議が教会の諸事を管理しました。毎週礼拝に出席するよう義務づけ、賭博、過度の飲酒、冒涜(ぼうとく)的な歌、慎みのない服装などは禁止されました。

 カルヴァンが忙殺されたのは単に宗教問題ばかりではありませんでした。法律、政治、経済、商業、工業、外交など大小無数の問題について意見を求められました。毛織物、ビロードなど、ジュネーブの商業を育成したのも彼です。

 教育に関しては慎重に整備され、1559年、友人のテオドール・ド・ベーズを学長として、新しい学校が設立されました。また衛生法規を定めてジュネーブを訪れるすべての人を感嘆させました。乞食をなくすための市営の施設も設けられました。

 以上の多面的な活動と並行して、カルヴァンは神学、聖書講解、典礼、論争、教会規則などに関する論著を絶えず公にし、社会的、政治的、経済的思想にまで影響を与えました。

聖書講解を著す

 彼はまた年平均286回の説教をフランス語で、186回の講義をラテン語で行い、膨大な彼の書簡は全集の10巻を満たしています。聖書のほとんど全巻にわたり、ヘブライ語およびギリシャ語原文に基づく講解を著しました。これは聖書の文学的、歴史学的、文献学的分析手法と偉大な学殖、識見との見事な結合を示しています。

法律を整備する

 カルヴァンの晩年はジュネーブの法律をいっそう整備して、「綱要」の神学を精力的に練磨することに費やされました。ジュネーブは規律と秩序と清潔の模範となり、訪れる人々の称賛の的になりました。カルヴァンから牧師としての訓練を受けた人々は、ヨーロッパの隅々にまで彼の教義を伝え始めました。オランダ、スコットランド、ドイツ、はては追放の憂き目に遭った故国フランスにおいてさえ、彼の信奉者がどんどん増えていきました。

 彼の教えは今日でも流れをくむ教会に伝えられて生き続けています。時とともに初期の厳格さが緩和されたものの、現代生活のピューリタン的側面に依然として根強く残っているのです。

 カルヴァンは長く患った後、1564527日、静かに息を引き取りました。持病に悩みながら清貧に甘んじ、睡眠時間も割いて仕事に専念した彼は、キリスト教界に消すことのできない感化の跡を残しました。

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 次回は、「マーティン・L・キング(上)」をお届けします。