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ジャン・カルヴァン(上)

(光言社『中和新聞』vol.527[2000年1月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

『キリスト教綱要』著す
「神はあらかじめ定めた」

国外に亡命

 ジャン・カルヴァンはスイスのジュネーブを中心に活躍したフランスの神学者、宗教改革者です。予定説と世俗的実践活動を重視する思想は、勃興しつつあった市民階級に迎えられ、その後のヨーロッパの精神に大きな影響を与えました。

▲ジャン・カルヴァン(ウィキペディアより)

 カルヴァンは1509710日、北フランス、ピカルディ地方のノアイヨンで生まれました。父ジェラル・コーヴァンはノアイヨンの司教書記、管区の会計役で、母ジャンヌ・ルフランも敬虔(けいけん)なカトリック信者でした。聖職者にしようとする父の意向からカルヴァンは12歳の時、ノアイヨン大聖堂付きの司祭になりました。

 2年後の15238月、ペストがノアイヨンを襲ったのを機に、カルヴァンは同地の貴族アルジェスト家の三人の少年とともにパリに出ました。パリ大学で修士号を取得した後、彼は父の命に従って法律を修めるべくオルレアン大学に移りました。

 1531年、法学士号を取得したカルヴァンはパリに戻りました。当時パリには信仰によってのみ救われるというルターの思想が広まっていました。カルヴァンは新しいプロテスタントの教説に影響を受けました。

 カルヴァンの親友ニコラス・コップがパリ大学の総長になった時に行った就任演説は、コップに異端の烙印(らくいん)を押すことになり、カルヴァンは連帯責任を問われ、罰金刑に処されました。彼はパリを去りました。数か月後にはフランスからの亡命を余儀なくされることになります。

予定説に立つ

 フランスをたつ前の3年間のある時期に、カルヴァンは「突然の回心」(『詩篇講解』序文に出てくる)を経験し、精神的にはカトリックと決別していました。1536年にプロテスタント主義の著作『キリスト教綱要』の中で自らの立場を明らかにしています。

 彼は「神は全能にして全知であり、この世に生ずるすべてのことをあらかじめ定めたのである」という予定説の立場を取りました。人間が永遠の栄光に浴するか、永劫(えいごう)の罪を被るかはすでに予定されているというのです。

 「しかし神は義であると同時に無限の哀れみを持ち、無償の贈り物であるこの哀れみこそが、選ばれた者たちのために天国の扉を開くのである」と彼は説きました。カルヴァンは自分の救いが確実なものはだれもいないと主張する一方で、常に自身の選びを確信して行動したのです。カルヴァンの後継者たちも永劫の罰の恐怖で意気消沈するよりも、選びの希望によって力づけられました。

新法令を発布

 カルヴァンは1536年、個人的問題を整理するために短期間フランスに戻り、その後ストラスブールへと旅立ちました。しかしフランスと神聖ローマ帝国との戦争のため、回り道しなければならなかった彼は、ジュネーブに行きました。そこでプロテスタント運動を興していたギョーム・ファレルに説得され、ジュネーブにとどまることになったのです。その後ただ一度、ジュネーブを離れたのを除いて、残りの生涯をこの地で過ごし、神の言葉を広め、キリスト教の歴史に類を見ない神政国家を築こうとしました。

 1537年カルヴァンは市の神父らに推薦され、説教職に任じられました。政府機能を持つ市会は一切の不道徳な組織、あらゆる種類のカトリック主義的政見に反対する法令を発布しました。姦淫者とともにロザリオと聖遺物が追放されました。賭博者ばかりでなく、不相応にぜいたくな衣服を着る市民も罰せられました。新法令は多くの市民にとってあまりにも厳しいものでした。

 1538年リベルタン(自由主義者)とカトリック主義者たちが連合して市参事会の多数派となり、カルヴァンとファレルは追放されました。

 カルヴァンはストラスブールに行きました。フランス・プロテスタントの小さな教会の牧師として働き、1540年にイドレット・ド・ビュールと結婚しました。

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 次回は、「ジャン・カルヴァン(下)」をお届けします。