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マルティン・ルター(下)

(光言社『中和新聞』vol.526[1999年12月15日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

「私の良心は神のみ言に」
聖書をドイツ語に翻訳

 ルターは1506年に修道士の誓願をし、翌年に司祭に叙されました。さらに父親と和解し、エアフルト大学で高等神学を研究することになりました。

▲マルティン・ルター(ウィキペディアより)

 そしてルターの生涯で第二の転機が訪れました。ヴィッテンベルク大学の神学教授に就任したのです。以後、生涯にわたって教授活動に従事することになりました。彼は聖書を読み、聖書の研究をしました。

 ルターは霊的に完成する必要性を強く感じ、いかに努力しても神の怒りをなだめることはできないと思っていました。精力的な修道士であり、若き神学者であったルターは、自分を「動揺しやすい良心を持つ罪人」であると感じました。

 こうした苦悶(くもん)の時期を過ぎ、ルターはパウロのローマ人への手紙について、別の解釈を発見しました。

 「神の義とは明らかに受動的で、信仰により、神はあわれみをもって我々を義とすると私は理解し始めた。…この時、私は自分が新しく生まれ変わり、開かれた門から天国そのものへと入ったように感じた」

 1517年に宗教改革の口火となった95か条の提題を掲示したルターは、やがて異端のそしりを受けるようになりました。ルターと論争を行ったエックはルターを有罪とする教皇勅書を獲得し、ルターは告発に答えるため1521年ヴォルムス帝国議会に呼び出されました。

 目の前に積み上げられた全著作を否認するよう教皇使節カエタヌス枢機卿から求められた時、彼は考える時間を要求し、翌日こう答えました。「私の良心は神のみ言にとらえられて良心に逆らって行動することは、確実でもなく正しくもありません。ですから私は何事も取り消すことはできませんし、また欲しもしません。…ここに私は立つ。このほかに何事もなしえません。神よ、我を救いたまえ。アーメン」

 ヴォルムスを去ったルターは、ヴァルトブルク城にかくまわれ、数か月の間、引きこもって過ごしました。この間に彼は聖書をドイツ語に翻訳するという偉業に取りかかり、同時に数多くの小冊子を書きました。ルター訳の聖書は、彼の名前と思想を広く知らしめただけでなく、ドイツ散文の優れた師表(手本)となりました。そしてルターの他の著作をも義とする評価を生むことになったのです。

▲ヴァルトブルク城に残るルターの部屋(ウィキペディアより)

 1522年、ルターはヴィッテンベルクに帰り、同僚のカールシュタットが起こした急進的改革運動を鎮めました。152425年には農民一揆や諸侯間の争いなどにも巻き込まれました。宗教改革は宗教ばかりでなく、社会やその制度にも影響を与えていたのです。1525年、ルターは以前修道女であったカタリナ・フォン・ボラと結婚しました。ルターの家庭生活はキリスト教徒の規範になったばかりでなく、彼自身の心の支えにもなりました。

 ルターの著述活動は死ぬまで続きました。それはしばしば批判者への回答として、激しい論争の中で書かれました。ルターはキリスト者の統一を切望しましたが、現実的には難しいものがありました。彼は論争のほかにも、説教集や讃美歌集を書いています。「神は我がやぐら」のような讃美歌は今も歌われています。

 1546年、2人のドイツ人貴族の争いの調停を頼まれたルターは、病床に就いていたにもかかわらず出かけました。帰途、病に倒れて同年218日、生まれ故郷のアイスレーベンでこの世を去りました。

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 次回は、「ジャン・カルヴァン(上)」をお届けします。