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マルティン・ルター(上)

(光言社『中和新聞』vol.523[1999年11月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

宗教改革の先駆者
雷雨の中で神に警告され修道士になることを誓う

 ドイツの宗教改革者として歴史に名を残すマルティン・ルター。彼の行った一つの行為が導火線となって、宗教改革という世界史的運動に発展しようとは、彼自身思ってもみないことでした。

▲マルティン・ルター(ウィキペディアより)

 元来カトリック教会において、罪の赦しは神の全権によるものであり、人間の自由にはならないものでした。ただ教皇が「鍵の特権」に基づいて刑罰を免除しうるという教義があり、これにしたがって11世紀ごろから教会による「宥免(ゆうめん)」の制度が定められました。13世紀にこの教義が拡大され、教会の赦免は現世のみならず来世にも及ぶとされ、人間の救いの一切を保証する最高の手段と見なされるようになったのです。

 このように死者の霊魂の救いをさえ説くようになり、「贖宥(しょくゆう)」の性格は一変してしまいました。1513年、ローマにサン・ピエトロ聖堂を築くための贖宥状(免罪符)の販売が始まると、民衆は争って金銭による「贖宥」の獲得に走りました。これさえあれば内面的な悔い改めはなくとも救われると考えられ、自分のためだけではなく、死んだ親兄弟の魂のためにも贖宥状を買ったのです。贖宥状を売る説教者も、買う民衆も金額次第で後生の罪は免れうると信じていました。

 このような現実に疑問を抱いていたルターは、ヴィッテンベルク城教会の門扉に「贖宥の効力を明らかにするための討論」95か条を提示しました。これはあくまで当時の学会の定例に従い、学者の討論を要請するための提題でした。ルターはこれに対する学者の応答を待ってさらに趣旨の徹底を期し、なにより教会側の反省と配慮の実現を希望していました。

 もし誰かがこのラテン語で書かれていた提題をドイツ語に翻訳して印刷し、神学者や民衆の注目を喚起しなかったなら、そのまま消え去っていたかもしれません。しかし提題は「あたかも天使がその伝達者でもあるかのように」急速に全ドイツに広まりました。その結果、不幸にして教会の手によって、政治的に否定的に処理されることになったのです。

 マルティン・ルターは14831110日、中部ドイツ、ザクセンのアイスレーベンに生まれました。父ハンスも母マルガレーテも農民の出身でした。父ははじめ坑夫として、のちにはいくつかの小さな鉱山の持ち主として熱心に働きました。

 ルターは1490年にマンスフェルトのラテン語学校で勉強し、1501年にエアフルト大学へ入学しました。1505年には大学の教養学科を修了して、法学科に進みました。息子を法律家にしたいという父の切なる願いがあったのです。

 150572日、実家からエアフルトへ帰る途中、激しい雷雨にあったルターは、恐ろしさのあまり地面にひれ伏し、死の恐怖に耐えかねて、もし助かったなら修道士になると誓いました。2週間後、ルターは父親の反対を押しきり、友人たちの驚きを尻目に、エアフルトのアウグスティノ修道会に入りました。

 「私は神の下された警告に呼び出されていたのである。修道士になったのは好んででも、憧れてでもなく、まして口腹の欲のためでもなかった。突然の死の恐れと苦悶(くもん)に取り囲まれて、私は強制され、やむをえず誓約を立てたのである」

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 次回は、「マルティン・ルター(下)」をお届けします。