2024.10.05 22:00
ほぼ5分で読める統一運動 20
世界共産化の阻止・防衛、国際共産主義との戦い
稲森 一郎
1960年代の特徴の一つは、米ソ冷戦の緊張が極度に高まり、あわや核戦争かと危惧される事態が生まれていた時代であるということです。
その顕著な例が「キューバ・ミサイル危機」(1962年10月15日~10月28日)でした。
統一運動の内的(宗教的)な運動の側面は、理想家庭の建設、祝福結婚の推進ですが、外的(政治的)な運動の側面は、国際共産主義との戦い、すなわち世界共産化の阻止・防衛を果たすこと、そして国境線を撤廃した世界の実現です。
当時、「38度線」を突破して韓国動乱(朝鮮戦争、1950年6月25日~1953年7月27日)を引き起こした北朝鮮の蛮行に共産主義の侵略性を見た韓国の人々にとって、祖国防衛は必須の課題となっていました。
特に、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席が、還暦の祝いはソウルで開催したいと語っていたことから、1972年4月15日までにはソウルを陥落し南進共産統一を果たすつもりでいたと考えられ、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)政権は1960年代後半から1970年代初めにかけて、極度の軍事的緊張に直面していました。
このような情勢下において、1966年5月1日、韓国では『原理講論』初版が刊行されました(日本での初版の出版は、1967年10月2日)。
これは韓国の信徒たちが本格的な真理武装を行う絶好の機会となりました。
高度に体系化された『原理講論』は、大学生および教授たちにとって真理探究の価値と関心を喚起するものであり、大学キャンパスへの伝播(でんぱ)の必然性が高まります。
韓国では、全国26の大学の原理研究会の会員たちが集い、1966年1月10日、全国大学原理研究会が創立されました。
当時、韓国は共産主義の勢力が浸透していくのを防ぐ道がない状況でした。それ故、文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、まず共産主義防備の方向において信任を得ることができる基盤を築くと同時に、統一運動が理念的な基準を民族の前に提示しなければならないという考えを、原理研究会のメンバーたちに語りました。
哲学思潮を動かす拠点が大学である以上、世界の大学の哲学・思想の分野を動かすためにも原理研究会が必要だったのです。
このようにして左翼思想を突き崩す最高の基点を原理研究会に置きました。
原理研究会の活動を通して、学生と教授の両者が協力し合い、理論的な面で統一原理の理念に太刀打ちできないことを証明し、さらには勝共理論を研究し、それを世界的に認識させる、そのような目的で原理研究会が創立されたのです。
日本では1964年から1967年において、各大学に原理研究会が設立され、おのおの活動していましたが、1968年6月、「大学連合」という形をとって、「全国大学連合原理研究会」が発足します。
これによって、各大学の原理研究会は全国的に足並みをそろえて、統一原理の研究と学内勝共活動(左翼勢力との闘い)の展開という二本立ての取り組みを実施し、左翼一辺倒の学内状況を大きく変えていく趨勢(すうせい)となります。
「60年安保」の騒乱から、1960年代はほとんど左翼一色の学内状況でした。
大学の共産化を成功させて、最後には日本全体を共産化するという戦略の下、大学は左翼運動の基地となっていたのです。
それに待ったをかけたのが原理研究会でした。
原理研究会は、左翼学生と左翼教授にとって大きな脅威と感じる存在となったのです。