2024.09.24 22:00
小説・お父さんのまなざし
徳永 誠
父と娘の愛と成長の物語。
誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。
第37話「信仰の親子の原点」
2週間にわたるフィリピンでの活動を終えてナオミとチカは無事に帰国した。
金融機関に勤めるチカが2週間の日程を海外ボランティアに費やすことは簡単なことではなかった。
しかしチカは、社員が海外ボランティアを体験することの価値を熱心に上司に訴えた。最初はチカのあまりの熱心さに驚いていた上司だったが、3度目のチカの申請は受け入れられた。
それは社内の人間関係で悩みの淵を歩き続けていたチカが長いトンネルを抜け出したことの証しでもあった。
「今回のスタディーツアーに参加することは簡単ではありませんでした。
入社2年目の立場で2週の連続休暇を取得することは、確かに高いハードルでした。
でも私は参加したかったのです。今この時に参加することが自分の人生にとって大事なことなんだという思いに駆られて参加させていただきました」
帰国後、フィリピンでの活動結果を報告する場が持たれた。
活動の成果と課題をステークホルダー(利害関係者)と共有し、スタディーツアー参加者の体験を分かち合う報告会の場は、国際協力活動を推進する上でも重要なプロセスの一つである。
とりわけツアー参加者の体験発表は、国際協力分野の人材を育成し、国際協力の意義を広く一般社会に認知してもらうために不可欠な資料となる。
ナオミはスタディーツアーの全般的な報告を担当し、チカは体験を発表する参加者の一人としてその役目を担った。
「スタディーツアーのマネジメントを担当してくださったスタッフのナオミさんは、大学時代からの友人です。
二人の出会いは、この団体が企画するスタディーツアーに参加したことがきっかけでした。ナオミさんとは現地で同じグループのメンバーとして行動を共にしました。
初めての海外ボランティアでしたが、その時も今回と同様、ナオミさんにいろいろと助けてもらいました。
しかしながら初めての海外ボランティア体験は、学生時代のいい思い出にはなりましたが、それ以上ではなく、何か忘れ物でもしたような、宿題をやり残した時のような感情を残すものとなってしまったのです。
大学卒業後、金融機関に勤めるOL生活が始まりました。
業務内容でつまずくことはありませんでしたが、人間関係ではかなり苦労しました。職場でのコミュニケーションがなかなかうまくできなかったのです。
そんな時も、フィリピンの時と同じように、ナオミさんやナオミさんのご家族に悩みを聞いてもらい、たくさん励ましていただきました」
ナオミと、そしてナオミの家族との交流は、チカに心の成長をもたらした。
この一年の変化は、チカ自身が誰よりも実感していた。
チカにとって、そしてナオミにとっても、2週間のフィリピンの旅はそのことを確かめる道のりとなった。
「私はスタディーツアーに、ある目標を持って参加しました。
その目標というのは、何事も相手のために、誰かのために行おう、ということです。
それは、『黄金律』と呼ばれている聖書の言葉に触発されたものです。
『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ』『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というマタイによる福音書にある言葉です。
ご存じのかたもいらっしゃると思います。
私は、ナオミさんのおばあちゃんに教えてもらいました。
聖書の言葉を通して、私の人間関係の悩みは、私が自己中心の心が強いことから生じてくるものだということが分かりました。
だから、自分が望むこと、自分がしてもらいたいことは、まず相手のために、誰かのために行おうと考えました。
もちろん、相手が望んでいないことを押し付けようなどとは思ってはいません。
職場の人間関係もそのような意識で接するように心がけました。すると、徐々にですが、人に対する不信感や不安な思い、恐怖心がなくなっていったのです。
これもナオミさんに教えてもらった言葉ですが、『私が変われば世界が変わる』ということの意味を、体験を通して実感できるようになったというわけです。
私はフィリピンの人たち、フィリピンの子供たちに対して、ずっと負債感を持って過ごしてきました。
大学時代に私が行った支援は、フィリピンの人々のためと言いながら、独りよがりな自己満足の行為に過ぎなかったのです。
自分の心を満足させることは大切なことですが、自己中心な心はずっと私を悩ませ、苦しめました。
私が愛だと思っていたものは本物の愛ではなかったのだと分かりました。
本物の愛の行動でなければ、私の本心は満足も納得もしないのだと思いました」
チカは会場に集まった50人余りの人々を前に、参加者一人一人の目を見つめながら話し続けた。
「私は今回のフィリピンでの活動を通して、励ますこと、励まされることの大切さを学ぶことができたと思っています。
真の励ましは人々に力を与え、自らも力を得るものだということです。
それは一時的で感情的なものではなく、心の栄養素となって人の心を元気にし、人の心を育てるものだということです。
経済的な支援はもちろん必要なものです。経済援助が不可欠な状況にある人々がいることは理解しています。
しかし経済的支援、物質的支援だけでは本当の意味での支援は完結しないのではないか、ということです。
特に子供たちの教育支援ということでは、精神的な支援ともいえる、励ましが必要不可欠なものです。
支援の主体はまさに家族を思うような相手に寄り添う愛情であり、子供たちをいとおしく思い、彼らの成長を心から願う励ましの心であると思うのです。
私は今回、数カ所の地域でたくさんの子供たちと触れ合いました。
経済的な援助というミッションは、ありがたいことに、すでに団体として果たされています。
では、スタディーツアーで私たちが子供たちと交流する意味は何なのでしょうか。私のミッションは何なのでしょうか。
私は『励まし』という、今まで日常的でいつでも手に入るような、ありふれた言葉としか捉えていなかったその行為の価値の重みの感触を、今回の活動を通して体感したのです。
現地を訪ね、貧困故に教育が十分に受けられていない子供たちと交流することの意味の大きさを私は初めて自らの心に刻むことができました。
励ましは子供たちだけに必要なのではありません。保護者の皆さんも、日本とフィリピンのスタッフの皆さんも、そしてこのスタディーツアーに参加している私たちにも必要なものです。
受益者は受益者のまま、支援者は支援者のままなのではなく、受益者は同時に支援者であり、支援者もまた受益者なのだと思うのです。
子供たちと一緒に食事をし、一緒に遊び、一緒に生活をする。
短い期間でしたが、子供たちと一緒に寝食を共にする日常生活を体験しました。
それは『体験』に過ぎないかもしれません。しかし心に刻まれた体験は永遠に残り、互いに影響を与え合うものであると私は確信しました」
ナオミの目から涙がこぼれた。チカも泣いていた。
心の奥底から情的な衝動が突き上げてくる。それは岩に打ち付ける激しい波のようでもあり、全ての万物に命を吹き込むような温かな春の風のようでもあった。
チカは具体的な体験エピソードをいくつか披露した後、スタディーツアーの体験発表を締めくくった。
「今回の活動を通して、支援を必要としている人々に必要な支援を提供することの意義を改めて知ることができました。
何度も繰り返してお話ししていますが、そしてその支援は、励ましが伴うものであるべきだということです。
英語で言えば、encouragement(励まし)です。真のencouragementは、attachmentを生み出します。発達心理学ではattachmentは『愛着』を指す言葉だそうです。
励ましは他者との愛の絆をつくり出すものだということです。
私自身もまた、多くの人に愛され、励まされて、今日を生きています。
最後に、このような活動に関われたことに感謝いたします。
特にナオミさんとナオミさんの家族に感謝したいと思います。
今回の海外ボランティア体験を通して、国際協力の本質、国境を超えて支援をすることの意義について多くのことを学ぶことができたと思っています。
このような活動の意義と、私が体験したことを、これからも多くのかたとシェアしていきたいと思っています。
ありがとうございました」
「…『家庭は愛の学校である』。本当にそうだな」とナオミは思った。
そして「家庭」というのは、「家族共同体」であって、そこが職場であっても学校であっても地域のコミュニティーであっても、愛と励ましで互いが支え合うことができれば、そこに神のもとの一家族世界がつくられていくものなのだと、ナオミは思い至った。
伝道は、第二の私をつくることである。母が、子供を生んで育てるほどの誠を尽くせば、問題ないことである。
ナオミは報告会で自分の体験を堂々と発表するチカを目の当たりにして、彼女を心から誇りに思った。いとおしくてたまらなかった。
「信仰の親子の原点も、きっとそこにあるんだよね、お母さん」と、ナオミはカオリに問いかけた。
カオリとナオミとチカの間に魂の絆が輝いていた。
【登場人物】
●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
●川島知佳(チカ):ナオミの親友、大学時代にナオミと出会う
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次回もお楽しみに!