https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=22576

小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。
 誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。

35話「“永遠の生命”の木」

 父が大腸がんを患ったことは私の人生の課題をあらわにした。

 「タカシ、おまえ、これからどうするつもりだ。青森には帰って来ないのか」

 故郷に帰って来い、父がそう吐露したのは初めてのことだった。

 「俺ももう年だ。母さんだってそうだ。カオリさんが守ってくれているから、くも膜下出血の大病の後遺症で苦しむこともなく今まで生きてこられたと思っているが、いつまでも普通に生活ができるわけじゃない。老化は避けられないし、人には寿命というものがある。母さんの物忘れが多くなっていることはおまえも気付いているんだろう? 俺だっていつがんが再発するとも限らない…」

 そうなのだ。両親は自らの寿命と向き合う年齢を迎えている。
 夫婦ともによわい80を超えているのだ。
 父の口癖をなぞれば、二人は「167歳」という年になったのだ。
 父は夫婦合わせた年齢を言いたがる。これも父なりの伴侶に対する愛情表現なのだ。

 還故郷…。

 家庭連合には、親孝行の教えと共に、故郷と親族を愛する思想がある。祖父母、父母、子女の三世代が一つになって生きる三代圏家庭理想というビジョンもある。
 父母が暮らす故郷のために生きる、それが還故郷だ。

 帰省を終えて「また来るね、母さん」と声をかければ、「あした来なさい」と母は返す。親子なのになぜ一緒に暮らさないのか、という問いかけだ。

 「還故郷がみこころ(神の意志)なのだ」

 と分かっている。
 故郷に戻り、親と同居することは、単なる親孝行のため、という話ではない。

 わが故郷は人口10万に満たない町だ。人口減少、少子高齢化と無縁ではない。過疎化、空き家問題、老老介護、若年女性人口の減少…。残念ながら、消滅可能性自治体にも分類されているのがわが故郷の現実なのだ。

 故郷の未来に対する責任を誰が持つのか。
 離れて暮らす息子の心は揺れる。


 父の健康問題をきっかけに柴野家と宮田家がそろって迎えた初めての正月。
 元旦の朝日は新年の輝きを見せてくれたが、晴天は二日と持たなかった。

 正月二日、うっすらと雪の積もった朝。
 「やはり東京とは寒さの質が違うなあ」などとひとりごちながら、ダウンジャケットを着込み、縁側に立って庭を眺めていた。

 20平米の広さの庭の北側に1メートル30センチほどの背の高さの松の木を見つけた。

 「あれ? こんな木、前からあったっけ?」

 父は盆栽が趣味だ。
 いくつもの鉢が三段に組まれた横長の棚に整然と並んでいる。我流だが、几帳面な父の愛情で根気強く創造されたミニ庭園である。

 盆栽棚の脇の1メートルほど離れた位置に、控え目だがオーラを放ってすっと立っている小さな松の木があった。きれいに剪定(せんてい)され、手入れも行き届いている。

 今まで気が付かなかった。

 そろそろ朝食の時間だ。
 家族皆が茶の間に集まる。
 父も席に着いたようだ。

 「お父さ~ん、ちょっといいかなあ。盆栽棚の脇の松の木はいつからあるの?」

 父はのそのそと、ナオミからプレゼントしてもらったロング丈のブラックのダウンジャケットを引っかけながら、私の隣にやって来る。

 「おまえたちと東京で同居していた頃、お盆にはこっちに戻って来ていただろう? もう10年にはなるかなあ。どこからか飛んで来たトドマツの種が芽を出しているのを見つけたんだよ。珍しいと思ってな。最初は鉢に植え替えて30センチぐらいまで育てたかなあ。その後、今の場所に移したら根を下ろしてくれたんだよ。よく育ってくれたよ」

 トドマツは日本では北海道だけで生育することができる樹木だといわれている。
 庭木としては東北地方でも生存の可能性はあるとされているが、寒冷地を好み、暖地では成長が悪くなるという。

 「いい木に育ってるだろう?」

 父はそう言って、目を細めた。

 「タカシ、ところでおまえ初夢は見たか?」

 父の言う初夢とは、元日から2日にかけて見る夢を指している。つまり、昨夜から今朝にかけて見た夢が記憶に残っていれば、それを初夢として語る資格があるということだ。

 「そうだね。見たような、見なかったような…。覚えていないなあ。今回は、カオリさんもシュウサクさんも出てこなかったよ」

 と私はおどけて見せた。

 「俺は初夢を見たぞ。なんだかよく分からんが、天から長いはしごが降りてきてな、たくさんの人間がそのはしごを行ったり来たりしているんだ。夢っていうのは不思議なもんだな。驚いたのは、地上に降りてきたはしごが着地した場所のすぐそばにこいつが立っているんだ」

 父は、庭のトドマツの木を指さした。

 「え? ホント? やばいよ、その夢。ヤコブの話に出てくる、ベテルという場所でのエピソードのまんまだよ」

 「ヤコブ? ベテル? よう分からんが、神懸かっていたのは間違いない。一富士二鷹三茄子というが、なかなか縁起のいい夢を見させてもらったと俺は思ったぞ。去年はがんもやったしな。今年はいい年になってほしいもんだ」

 朝食の席に全員がそろった。
 私はたまらず、父の初夢の話を皆に告げた。

 「あらまあ。柴野さん、それってまるでヤコブに出てくるお話と同じじゃない」

 シホがまず反応した。

 「お義母さん、そうですよね。そう、そうなんですよ。新年早々、おやじが旧約聖書の世界に迷い込んだっていう感じなんです」

 朝食の後は、聖書の話題でひとしきり盛り上がった。
 父の初夢の話から、ヤコブの話を家族皆で分かち合う結果になったというわけだ。

 シホが持参していた聖書の創世記第28章の一部をナオミが朗読した。

 「さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。そして主は彼のそばに立って言われた、『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう』。ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。そして彼は恐れて言った、『これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ』。
 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた」

 「いや~、驚いたねえ。そうなんだよ。全くそのとおりの夢を見たんだ。俺は今朝、その夢に驚いて目を覚ましたんだ」

 父は初夢を自慢したくてしょうがない。

 ナオミもタツコもシホも、皆うれしそうに聞いている。
 父もご満悦だ。それはそうだろう。聖書の一場面の主役を演じたようなものなのだ。

 「あの~、提案があるんだけど」

 私は思い切って切り出した。

 「庭にね、お父さんが育ててくれたトドマツの木があるんだ。ヤコブの話に“石のまくら”というのがあったでしょ? その木をわが家の“石のまくら”にしたらどうだろう。それをわが家のベテルと呼んでもいいし、聖地と呼んでもいい。これからはその木の場所を柴野家と宮田家の『神の家』『天の門』としたらどうだろうか」

 「賛成!」

 ナオミが一番に声を上げた。

 「私も賛成よ」とシホが言い、テツオもタツコも「よく分からんが、まあ、縁起のいい話のようだからいいんじゃないか」と同意した。

 「代々木の聖地みたいだね」とナオミがささやく。

 「ああ、そうだね。東京に戻ったら、教会長さんに報告して、相談してみよう」と私はナオミに耳打ちした。

 ナオミがスマホで検索する。

 「トドマツってね。正式な種名はマツ科モミ属トドマツ(Abies sachalinensis Masters)っていうんだって。モミの木の仲間であることを示す『Abies(アビエス)』はラテン語で『永遠の生命』を意味するらしいよ」

 永遠の生命…。

 日本では北海道にしか自生できないといわれるトドマツ。
 どういうわけかそのトドマツの一粒の種が北東北の小さな町に舞い降りて根を付けた。

 そしてそれが「永遠の生命」の意味を持つ樹木だったとは…。

 還故郷と父の初夢がつながった。
 先祖たちが下りて来て、地上に神の家、天の門をつくりたいのだ。
 そしてそれを可能にする道が還故郷なのだ。

 私は背中を押されるように、今日をその出発の日としなければならないと強く自覚させられた。

 「お父さん、トドマツを囲んでみんなでお祈りしたらどうかしら」

 ナオミは柴野家と宮田家の霊肉界合同作戦の指揮官だ。

 「タカシさんがまず代表で祈ったらどうかしら」とシホがアシストする。

 家族全員が手をつなぎ、「永遠の生命」を囲んで祈りの時間を持った。
 ここから私たちの本格的な還故郷摂理が始まるのだ。

 吐(は)く息は白かったが、心は熱く、込み上げる思いで胸がいっぱいになった。
 家族皆の心が一つに結ばれた瞬間だった。

 いつの間にか晴天を取り戻した正月の空を見上げながら、私たちは皆、笑みを浮かべていた。
 父は声を上げて笑った。みんなも父に続いた。

 そこにはカオリとシュウサクの笑い声も混じっていた。


登場人物

●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野尚実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
●川島知佳(チカ):ナオミの親友、大学時代にナオミと出会う

---

 次回もお楽しみに!

関連情報

男手ひとつで3人の娘を育てるお父さんの、愛あふれる子育てコラム「お父さんのまなざし」コチラから