2024.08.10 22:00
ほぼ5分で読める統一運動 13
キリスト教の失敗と世界基督教統一神霊協会の創立
稲森 一郎
1954年5月1日、キリスト教の失敗を蕩減するために、文鮮明(ムン・ソンミョン)師は「世界基督教統一神霊協会」を創立します。
文師を迎え入れること(1945~1948)に失敗したキリスト教一世たちの失敗を蕩減復帰する立場に立ったキリスト教二世たち(ミッションスクール大学生)が、大学で統一原理を積極的に受容する動きが、1953年から1955年にかけて激しく巻き起こり、大学はその伝播(でんぱ)のうねりを阻止する妨害策に出ます。
文鮮明師は自叙伝の中で、「危機感に襲われた延世(ヨンセ)大学と梨花(イファ)女子大学は、学校の歴史上、前代未聞の破天荒な選択をしました。梨花女子大学は金永雲(キム・ヨンウン)副教授をはじめ、教授ら5人を免職し、学生14人を退学させたのです。…
この事実が世間に漏れると、新聞(東亜日報、韓国日報)に『宗教の自由がある国で退学処分は問題がある』という趣旨の社説が載り、世の中が騒然としました」(光言社文庫判『平和を愛する世界人として』147~148ページ)と述べていますが、この不条理な大学側の措置にマスコミも批判的であったにもかかわらず、延世大と梨花女子大は事実無根のデマを流して、文師を「淫乱の似非教祖」と騒ぎ立てました。
結局、文師が述べておられるように、「1955年7月4日、警察が私たちの教会に踏み込んできて、私を逮捕し、後日、弟子の金元弼(キム・ウォンピル)と劉孝永(ユ・ヒョヨン)、劉孝敏(ユ・ヒョミン)、劉孝元(ユ・ヒョウォン)を捕らえていきました。既成キリスト教会の牧師と長老たちが、権力層と手を結んで私たちの教会を潰そうとしたのでした。投獄された4人は、私の同志であり、弟子でもあった者たちでした。さらに、警察は私の過去を隈無(くまな)く調べ上げて、兵役忌避という罪状を見つけてきました。北朝鮮では獄舎につながれ、南に下ってきた時はすでに入隊年齢を過ぎていた私に、『兵役法違反』の容疑をかけたのです」(同 151ページ)という理由のない逮捕劇に至ったのです。
文鮮明師はソウル地方検察庁に送致され、西大門(ソデムン)刑務所に収監されましたが、結局、収監されて3カ月ぶりの1955年10月4日、無罪で釈放されました。
捕まっていく時はマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行く時は、新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけです。
キリスト教二世を中心とした大学伝道が、大学側のデマ作戦により暗礁に乗り上げる結果となり、文師とその弟子たちの逮捕・収監に至った、いわゆる梨花女子大学事件は、メディア権力自体も大学側のデマに同調して、その後の文師の統一運動に反対するようになり、統一運動と国民の間を分断する報道をつくり上げていくようになります。
西大門刑務所を出監して、1年ほどたつと、教会のメンバーはおよそ400人になっていました。
1950年代後半から1960年に向かって、全国の開拓伝道が展開されたことから、伝道の拡大が進みます。
1955年12月には、洪順愛(ホン・スネ)女史(韓鶴子〈ハン・ハクチャ〉総裁の母)が入教、1957年には朴普熙(パク・ポーヒ)氏(長らく文師の特別補佐官を務める)の入教などがあり、大きな役割を果たす人材も加わってきます。
当時の文師の心境は「『誠を投入せよ! 眠けの中でも投入せよ! へとへとになるまで投入せよ! おなかが空(す)いても投入せよ!』と何度も何度も自分に言い聞かせ、ありとあらゆる反対とデマの中にあって、種を蒔(ま)く心情で祈りました」(同 160ページ)とあるように、完全投入の祈りを実践する日々を送っておられました。