2024.07.16 22:00
小説・お父さんのまなざし
徳永 誠
父と娘の愛と成長の物語。
誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。
第29話「人生、山あり谷あり」
梅雨が明けた。
そのことを繰り返し宣布するかのように夏の陽光は容赦なく連日降り注いだ。
7月下旬の土曜日の朝8時。
強い朝日を浴びながら、私たちは大勢の登山者が列をなすJR高尾駅のバス停に並んでいた。
奥高尾縦走コース(陣馬山〈じんばさん〉~景信山〈かげのぶやま〉~小仏城山〈こぼとけしろやま〉~高尾山)18kmに挑戦するためである。
「私たち」とは、私とナオミ、そしてナオミの友人チカの3人を指す。
ナオミとチカは同い年同学年だ。大学2年の時、海外教育支援事業を行っているNGO(非政府組織)団体が主催するフィリピンのスタディーツアーで知り合った。
大学は違ったが、現地での活動で意気投合し、以来、お互い気が置けない間柄になった。チカはナオミを姉のように慕った。
二人はこの春大学を卒業し、ナオミは国際協力NGOの職員に、チカは金融機関の事務職に就いた。
6月に入った頃だった。
ナオミは珍しく私に相談事を打ち明けた。
「チカがね、最近、体調を崩しがちなの。メンタル不調みたいなのよね」
「チカちゃん、もしかして“5月病”かい?」
「そうねえ。上司との問題かなあ? 会社での人間関係がうまくいってないみたい…」
「そのうち慣れてくるんじゃないの?」
「そうだといいんだけど…。会うたびに辞めたい、辞めたいって言ってるの」
何と答えていいやら。それでもナオミが私に相談してくるくらいだから、黙っているわけにも、放っておくわけにもいくまい。
「お父さんは何をすればいい? ナオミとチカちゃんのために協力できることが何かあるかい?」
「そうねえ。お父さんだったら、今のような状況のチカにどんなアドバイスをするの?」
そうきたか…。ナオミのことだ。長い時間、チカの話に耳を傾け、心も砕いているはずだ。自分の考えや意見もすでに伝えたことだろう。
「仕事の適性とか、職場の人間関係のことは分からないけど、チカちゃん、今はきっと、心が閉じこもっている状態なんじゃないかなあ。行き詰まって、壁に突き当たって動けなくなっている感じじゃないかい。自分自身の中に閉じこもってしまったら、自力での解決の道は閉ざされてしまうからね。
もしそうなら、とにかく自分の中から外に出るしかないと思うな。物理的にでも、運動をするとか、外に出る機会を増やしたらどうだろう?」
「そうかあ…、そうだよね…。…それじゃ、山歩きがいいかも。お父さんも一緒にどう? 3人でトレッキング! いい感じじゃない」
「え? お父さんも一緒に?」
「そう。チカは登山初心者だし、お父さんの山カフェ、チカにも味わってほしいし…。山のこと、登山のこと、いろいろ話してほしい、お父さんに! 人生の意味や生き方のこともね」
何が「いい感じ」なのかは分からなかったが、そのひと言で、チカの提案の意図が腑(ふ)に落ちた。
暑くはなるだろうが、ナオミと私は梅雨明けの山行を計画した。
チカの登山歴は、小学生の時の遠足登山と、大学生の時にナオミと歩いた2回だけだった。
せっかくの登山の機会だ。初心者だからこそ、チカに山歩きの魅力を伝えたいと欲が出た。
私はナオミに奥高尾の縦走登山を提案した。ナオミとチカに、少しでも長い時間を山で過ごさせたいと考えたからだ。
「奥高尾の縦走? 17、18km歩くよね? チカ、しんどくないかなあ?」
ナオミは奥高尾の縦走登山を一度経験済みだ。
確かに体力的にも脚力の面でも初心者にはチャレンジコースだ。
「若いんだから、大丈夫さ。チカちゃんのペースで歩けばいい。奥高尾はいいぞ」
というわけで、3人の山行が決まった。
チカは18kmの縦走登山の提案を受け入れた。プランの詳細は理解していない。ナオミと一緒に山が歩ける、それだけでオーケーしたのだ。
高尾駅の待ち合わせ場所に現れたチカは絵に描いたような「山ガール」のオーラを放っていた。気合いは十分伝わってくる。
彼女は登山用のウェアやシューズ、そしてザックも新調したという。「形から入るタイプなんです」とチカは笑った。
「ナオミのお父さん、ご無沙汰してます。今日はよろしくお願いします。登山は初心者ですけど、頑張ってついて行きますから」
チカは直立不動でそう言うと、ぺこりと頭を下げた。
登山客をぎゅうぎゅうに乗せた臨時便のバスで、陣馬山の登山口最寄りバス停となる陣馬高原下を目指す。
満員電車状態のバスの中では、景色を楽しむ余裕などなかったが、40分ほどバスに揺られながら、登山口に着いた頃には、3人とも日常から非日常への切り替えスイッチはオンになっていた。
登山前の準備体操を終えると、「お父さん、登山で気を付けることとか、山歩きの楽しみ方とか、お話ししてよ。チカも登山のこと、もっと知っておきたいよね?」と、ふいにナオミが私に振ってきた。
「ナオミのお父さん、ぜひいろいろ教えてください。ナオミからお父さんのこと、いろいろ聞いています。私、登山の心得、知りたいです。お願いします」とナオミとの息はぴったり合っている。
ならばと、私は観念して、そのいろいろを話すことにした。
「そうだね。娯楽としての登山は楽しむのが目的だからね、楽しむのが一番。自然を満喫して、大いに山歩きを楽しんでもらいたいね。ぜひ目的を達成しよう。
でも、高尾山であれ富士山であれ、どんな山でも油断は禁物だね。山はリスクにあふれているからね。
特に複数で登山するときには、一緒に行動する仲間との信頼関係が大事なんだよ」
「信頼関係、ですか?」とチカが反応する。
「そう。信頼関係…。当たり前だと思うかもしれないけれど、登山は自分の足で歩くことが大前提。山では自己責任、自助努力が原則なんだ。
でもどこか痛いとか、体調に問題があったり、しんどかったり、気になることがあったら我慢せず、遠慮せず、口に出してすぐに伝えることが重要なんだよ。
互いを尊重し、信頼しながら、必要な助けはいつでも求め合える関係が大事なんだ。登山は常に危険と隣り合わせだからね。
自分の足で歩くという真意は、過度な依存心を持たないようにすべきだということ。依存心が大きくなると、人間関係のバランスが崩れて全体が潰れてしまうリスクが高まるからね。
リスクが小さなうちに、お互いにそれを共有して解決しながら進むのが登山だとも言えるんだよ。信頼関係なくして意思の疎通は図れない、ということだね。
私はこれを“自立と共立のフィロソフィー”と呼んでるんだ。登山の時だけでなく、仕事でも、家族やコミュニティーの中でも役に立つ人生哲学だと思うよ」
「すごいですね。なんか、登山ってすごく奥が深いですね」
「お父さんの口癖は、“俺は山から人生の全てを学んだ”だよね?」
「いや~、大げさに聞こえるかもしれないけど、本当の話、自然や山を歩くことを通して人生のことや生き方、人間関係の在り方も学んでこれたような気がしているんだよ。
まあ、お説教はこれぐらいにして、歩き始めようかね。
この登山口は、新ハイキングコース登山口っていうんだけど、“ハイキングコース”という割には急勾配だし、木の根っこが結構露出しているから、足元に注意しながら登らないと、転倒もしやすいので要注意なんだ。きつくなったら、無理せず休憩を取ったり、栄養補給をしたりしながら前に進もう。いいね?
陣馬山から高尾山口駅までは、距離はあるけど、ここを乗り切れば、その後は高低差もそれほどないし、心も体も、そして頭も適度に活性化できる、日帰りで縦走登山が楽しめる、いいコースなんだ」
「“登れない山はない”“登ったら、下りよ”だよね、お父さん?」
ナオミの締めの言葉を合図に、3人は登山を開始した。ナオミを先頭に、チカ、私の順で続いた。
ナオミは健脚な方だが、チカのペースに合わせながらも、少し引っ張ってあげる感覚でリードした。
「結構きついかも」「水分取っていいですか?」と、チカは私の指南を受け入れて、素直に自分の状況や状態を伝えてくれた。ナオミも時々に自分の感じたことや、登山道の状態を示しながら、上手にナビゲートした。いいチームワークだ。
予定していたよりも少し時間は要したが、私たちは360度の眺望が楽しめる、広い陣馬山の山頂にたどり着いた。
標高855m。冬のような澄んだ透明度の高さはないが、夏雲と青空の絶妙なパズルの中で、富士山も丹沢や奥多摩の山々も、その美しい山容を惜しみなく見せてくれている。
チカは初めての陣馬山登頂に少々興奮気味だ。
陣馬山のシンボルでもある「白馬の像」が気に入ったようで、角度を変えながら、何枚もスマホの写真に収めていた。
「チカちゃん、縦走は始まったばかりだけど、一番きついコースは通過したからね。あとは、適度に休みを入れながら、一歩一歩進めば、午後3時ごろには高尾山口の駅に着けると思うよ」と、私は声をかけた。
「チカ、陣馬山の展望最高だよね。“白馬の像”もシュールだし、頂上は公園みたいに広くて、開放感マックスだね」とナオミ。
「陣馬山」と呼ばれるこの山は、元々、北条氏を攻めた武田氏が陣を張ったことに由来して「陣場山」と呼ばれていたという。
1960年代後半に京王電鉄が観光地として売り出すために白馬の像を建てて山の象徴にしたことから「陣馬山」としてその山の名が定着するようになったのだ。
「うん、このオブジェ、すごく印象的だね。“しっかりしなさい!”って鼓舞しているみたい」
「そうだね。天に向かって真っすぐ立ってる感じがかっこいいし、やっぱ、なんか、シュールって感じ。お父さんはどう思う?」
「そうだなあ。若駒のいななきって感じかな。天に向かって、勢いよく若さを誇示している青年のイメージだね。成長し、発展している姿。君たちのようにね」
「お父さん、言うねえ。ねえ、チカ。白馬の像と同じポーズで写真撮ろうよ。お父さん、二人の若駒のいななき、撮ってちょうだい!」
「よ~し、写真を撮ったら、コーヒータイムだぞ。ドーナツと山カフェで気合いを入れたら、次は景信山に向かうからね」
ナオミとチカは顔を見合わせて笑った。
人生はこれからだ。君たちはまだまだ若い。人生、山あり、谷あり。天に向かって声を上げ、泣いて、笑って、休みながらでも前に進めばいいのだ。必要な時には助け合えばいい。君たちには、励まし合い、助け合う家族や仲間がいるではないか。
下ってはまた登る。それを繰り返す。人生もまた縦走登山のようなものだ。
私たちは陣馬山の山頂に別れを告げ、次なるピークに向かって登山道を下った。
【登場人物】
●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野尚実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
●川島知佳(チカ):ナオミの親友、大学時代にナオミと出会う
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次回もお楽しみに!