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ほぼ5分で読める統一運動 9
興南監獄から文鮮明師を解放した国連軍

稲森 一郎

 国際連合との関係という観点から朝鮮戦争(六・二五動乱、1950625日~1953727日)を振り返ってみると、国連軍の編成とその動員がどのように朝鮮戦争に関係していたかが分かります。

 朝鮮戦争は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍が第2次世界大戦後に策定された朝鮮半島の南北を分かつ38度線を越えて大韓民国(韓国)に侵攻したことをきっかけに、南北に分かれた民族同士が3年間にわたって戦った戦争のことです。

 北朝鮮軍が侵攻を開始した時、国連の安全保障理事会は、中国代表権を巡って米国とソ連が対立していました。そしてソ連が欠席戦術を取っていたため、ソ連欠席のまま(欠席は拒否権と認められない)北朝鮮の攻撃を「平和の破壊」に当たると認定し、韓国に対して必要な支援を提供することを国連加盟国に勧告することが採択されたのです。

 提供された軍隊は米国の統一指揮下に置かれ、米国の軍人を司令官に任命し、国連旗を使用することを認める決議がなされました。
 こうして出来上がった「国連軍」は、ソ連欠席中の安保理決議に従い、自発的な参加を呼びかけて編成されましたが、第2世界大戦後の国際機構が軍事的強制行動に乗り出した最初のものであり、米国をはじめとする16カ国が地上軍を参加させました。

 その軍事行動は、国連軍統合司令部の司令官(ダグラス・マッカーサー)の指揮下で行われました。
 16カ国の参戦国は、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ギリシャ、トルコ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、コロンビア、タイ、フィリピン、エチオピア、南アフリカ連邦です。

 国連軍の編成が成功した大きな理由は、ソ連が国連安保理に欠席したことです。
 もし、安保理決議にソ連が参加していれば、ソ連は拒否権を行使し、国連軍の編成はできなかったでしょう。

 北朝鮮軍に占領されていたソウルを取り戻すために、国連軍は仁川上陸作戦を断行し、1950915日、韓国の仁川に上陸することに成功します。
 こうして北朝鮮軍からソウルを奪還した国連軍ですが、さらに北上し、1014日未明には、咸鏡南道の興南監獄を解放します。

 朝鮮半島の東海岸に位置する咸鏡南道の興南監獄には文鮮明(ムン・ソンミョン)師が収監されていました。
 北の共産党は1013日までに囚人番号595番までを殺害していました。囚人たちを皆殺しにして逃げようという算段です。

 10月14日には、596番から処刑する予定でした。その596番がまさに文師の囚人番号でしたから、危機一髪のところで文師は国連軍によって救出されたのです。

 その時のことを、文師は自叙伝の中で、「ところが、まさにその時、処刑を翌日に控えた19501013日、38度線を越えた韓国軍と国連軍が興南に押し上がってきたのです。米空軍のB29爆撃機は14日、興南肥料工場とその付近一帯に激しい爆撃を加え、興南全体が火の海になるほど、梅雨の雨のように爆弾を降り注ぎました。危険を察知した看守たちは、その前に逃げ出していました。ついに、私たちを囲んでいた監獄の門が開かれました。夜中の2時ごろ、私は他の囚人たちと共に、堂々と歩いて興南監獄を出てきました」(光言社文庫判『平和を愛する世界人として』125ページ)と述べています。

 この国連軍による鬼気迫る興南監獄の解放劇を読むと、国連軍が文鮮明師を救出するという歴史的な出来事が、天の絶妙な摂理として見えてくるのです。