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マザー・テレサ(上)

(光言社『中和新聞』vol.519[1999年9月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

「スラム街の聖女」
貧者救済に生涯ささげる

 「貧しい人に触れる時、私たちはキリストのお体に触れているのです」

 深いしわに笑みをたたえながら語るマザー・テレサは、インド・カルカッタのスラム街に住む多くの人々を救い、「スラム街の聖女」と呼ばれました。ノーベル平和賞をはじめたくさんの賞を受け、その愛の業績に対して多くの大学から博士号を受けています。

 テレサが粗末な白い木綿のサリーを着て、カルカッタの町外れにあるスラム街に立ったのは、1948816日、38歳の時でした。

 当時インドは、イギリスからの独立をめぐって、ヒンドゥー教とイスラーム(イスラム教)が激しく戦っていました。1947年には独立を果たしましたが、ヒンドゥー教徒の多いインドとイスラム教徒の多いパキスタンに分かれてしまい、それに続く印パ戦争によって、多くの難民が流れ込みました。カルカッ夕は内紛で家をなくした人や難民であふれ、あっという間にスラム街が形成されたのです。

 最初にマザー・テレサの目に入ったものは孤児たちでした。こういう子供たちを連れてきて青空教室を開き、アルファベットを覚えさせ、衛生的に生きるための生活習慣を教えました。

 ヒンドゥー教国インドでのキリスト教徒テレサの活動は、さまざまな困難も伴いましたが、次第に多くの市民が力を貸してくれるようになりました。

 ある日、テレサは歩道で死にかけている女性を見つけました。彼女の苦しみを和らげ、ベッドで心静かに人間らしく死なせてやりたいと思って、その女性を連れて帰りました。これをきっかけとしてできたのが「死を待つ人の家」です。19528月のことでした。3年後の1955年には「孤児の家」、1968年には「平和の村」ができました。「平和の村」はハンセン病者が治療を受け、自給自足の共同生活をするために作られたものです。

 これにはひとつのエピソードがあります。ある時ローマ法王パウロ6世が、マザー・テレサにリンカーン・コンチネンタルという高級車を寄付しました。もちろんマザーがこの車を使うはずはなく、かといってそれを売って活動の資金にしたわけでもありませんでした。マザーはこの車を一等の賞品として寄付の宝くじを作ったのです。その結果、車の価格の5倍に当たるお金を集めることができ、「平和の村」建設に使われたのでした。

 マザーをはじめとするシスターたちの献身的な努力によって、「死を待つ人の家」に収容された人は4306人、うち死亡した人が18944人(1980年まで)、収容された孤児12000人(1984年まで)、治療を受けたハンセン病患者は15000人以上(1984年まで)です。また毎日1000世帯分の食事の炊き出しが行われています。

 今ではマザーの生き方に感銘を受けた女性が世界中から集い、2400人余りのシスターが、貧しい人々とともに生きています。

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 次回は、「マザー・テレサ(下)」をお届けします。