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ジョン・ウェスレー(下)

(光言社『中和新聞』vol.518[1999年8月15日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

1週間に20回も説教
野外礼拝で大衆伝道に成功

 メソジスト運動の基調となったジョン・ウェスレーの信仰は、34歳の時に内的な苦闘の結果、ロンドンのアルダスゲート街の小さな集会で得た回心体験を土台とするものでした。回心後のウェスレーはリバイバル運動の先駆者となり、愛と平和の福音を宣(の)べ伝えるためにイギリス全土を旅する人となります。

▲ジョン・ウェスレー(ウィキペディアより)

 彼が実践したことで当時として画期的なことは、野外礼拝でした。ウェスレー自身初めは教会以外で説教することにためらいを持っていたのですが、英国国教会の教職者たちがウェスレーたちの説教を許可しないことや、教会に足を運ぶことができない鉱夫たちのことを思って、戸外で説教することになったのです。

 メソジストのリバイバル運動が拡大するにつれ、ウェスレーたちへの迫害は日増しに激しくなってきます。悲しいことに苛酷で激しい迫害のほとんどが、英国国教会の教会指導者たちによって扇動されたものでした。彼らは民衆を扇動し排撃するために様々なデマを流しました。「異端」「世を惑わす者」「人々をあざむき不安をひきおこす者」「狂乱する空想家たち」「紛争の種をまく指導者」などと、数えきれないほどの偽情報を流したのです。

 当時のマスコミもそれに乗じ、出版される雑誌も新聞もメソジストのことでいっぱいでした。ウェスレーたちを狂犬、前代未聞の怪物のように扱いました。その影響で一般の人々はその非難の声に共鳴し、暴力化してきました。そのため、警察が暴徒取締令を出すほどでした。

 しかし、それよりもウェスレーにとってもっと胸が痛いことは、外部からの迫害ではなく家族からの言葉でした。最愛の妹イミリアからは「メソジストたちはとても悪い人たち」と言われ、一番上の兄サムエルからは「おまえは私の弟ではない」と、兄弟縁を切られるような言葉を投げかけられたことがいたく響いたのです。

 ウェスレーの行跡は大別して三つあります。一つ目は、42100回にも及ぶ説教です。 一般的な祭司は1年間に100回の説教をすると言われていますが、当時の説教回数の新記録を樹立したばかりか、今現代にしても驚くべき記録です。在職54年間で、1週の6日間に毎日2回説教し、日曜日には3回していることになるのです。それも説教の多くが野外で、1週間に20回も説教したことがよくあったのです。

 二つ目には、驚異的な彼の伝道旅行です。今日のように車や電車や飛行機に乗って簡単に移動できる時代と違って、当時は徒歩か馬車、さもなくば極めてのろい航海船が主な交通手段です。54年間で主に馬と徒歩で毎年8000キロの旅行をしたということは、通算して432000キロになります。これは、地球を12周できる距離ですから、旅行の大部分が馬の上にあったか、馬の背後から歩いて行ったということになります。そのためか彼はだれよりもイギリスの地理に詳しかったと言われています。

 三つ目は彼の著作事業です。時間を盗むように見つけては、広範囲な書籍1200冊以上を読破したばかりか、フランス語、ラテン語などの文法書を著述し、「アルメニアン雑誌」として知られている56ページからの内容を持つ月刊誌を長期にわたり編集しました。そのほか、4冊にまとめられた聖書全体の注釈書を病気療養中の半年間に書き上げたり、理学や教会史、医学、電気、教会音楽に関する書などを著述、編集、発行したりしています。そのほか、弟チャールズと協力してまとめた詩集は40巻、ウェスレー自身の説教集、論文、日記、翻訳書、要約書など合計すると実に200巻にも上ります。

 そして何より素晴らしいことは、多くの大衆を引き付けた彼の人柄です。牧会者として、教会員の家族を訪問して歩き、一人一人に励ましと慰めの言葉を残して行くことはもちろんのこと、ウェスレーはまずその町に行ったら、一番貧しい人々、一番顧みられない人々のところへ行くのが彼のやり方でした。当時こうした人々はたいてい炭鉱夫の中に見いだされたのです。

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 次回は、「マザー・テレサ(上)」をお届けします。