https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=22576

ジョン・ウェスレー(上)

(光言社『中和新聞』vol.517[1999年8月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

オックスフォードに信仰の明かりを
メソジスト運動の発火点に

 イギリスが産業革命によって大きく変動していた18世紀、ジョン・ウェスレーは沈滞状態に陥っていた英国国教会内にメソジスト運動を興しました。その運動は社会の下層にいた人々に広く受け入れられ、衰えきっていた宗教心を復興させました。

▲ジョン・ウェスレー(ウィキペディアより)

 メソジストとは、「くそまじめ」という意味で、初めは軽蔑の意味でウェスレーグループに付けられたあだ名でした。そう呼ばれたのも、生活規範が非常に厳格で規則を守ることに忠実だったからです。まじめに聖書を読んで、祈りをし、聖礼典(聖餐式と洗礼)を重んじ、集会を大切にして、断食や献金をよくしたのです。

 社会運動も活発で、囚人の訪問、貧しい者の救済、逆境にある子供たちの医療や教育、病人の世話などの奉仕活動をよく実践しました。その他、たくさんの教会、伝道所、学校、図書館、衛生施設などを作りました。その影響は後の奴隷解放運動にも影響を与えるばかりか、当時のイギリスの経済的危機を救い、フランス革命のような悲惨な流血事件に至らせることなく、信仰の自由と民主主義を無血で勝ち取ったとも言われています。

 ジョン・ウェスレーは1703628日、イギリスの人口約2000人の小さな町エプウォースで、18人兄弟の15番目に生まれました。ウェスレー家は何代にもわたってキリストに対する敬けんな信仰を持っている家系で、父サムエルはオックスフォード大学を卒業後、エプウォースの教会に赴任し、40年間そこで司祭の勤めを果たしました。ウェスレーの祖父もオックスフォード大学で教育を受け、22歳の時から説教を始めましたが、英国国教会に服従することなく、祈祷書を読み、かつ福音的な説教をするという理由から、4回も投獄されています。

 母方の祖父サムエル・エーンズレイも司祭で、非常に信仰心のあつい両親の間に生まれたひとり息子でした。少年時代に聖書を毎日20章読むことを決意し、それを守り続けたほどの固い意志の持ち主であったといいます。

 ジョンの母親スザンナは、サムエル・エーンズレイの末娘で、思慮深く、信仰に富みかつ聡明でした。ギリシャ語、ラテン語、フランス語など語学にもよく通じていたようです。

 ウェスレー一家はお金持ちではなかったので、子供を全部学校へやるゆとりはありませんでした。それで、母スザンナが家庭で教育したのです。子供の数が多かったので、まるで本物の学校のようでした。父親の親友の援助を受けて学校に通うことができるようになった11歳の時まで、ジョンは母スザンナから教育を受けたのです。

 1725年、彼は22歳で執事として教職に任じられます。その年、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』とジェレミー・テーラーの『聖なる生』『聖なる死』を読んで、大いなる感銘を受けます。特に、テーラーの『聖なる生』『聖なる死』は彼の人生に多大なる影響を与えました。それまでは、生涯をすぐ神のために献身するとは思っていなかったのに、自分の人生をただちに神にささげる決心をしたのです。

 ジョンはオックスフォード大学在学中にメソジスト運動の発火点となった小さなサークルを作ります。最初はわずか4人で始めたのですが、やがて6人となり8人となるというように、その会員数は増加しました。その中には、賛美歌の作詞作曲者として有名なジョンの弟のチャールズ・ウェスレーや、野外伝道者となったジョージ・ホイットフィールドなどがいたのです。しかし、死刑執行が確定している受刑者に対して慰めと希望を与える牧会活動を行ったり、規則正しくまじめすぎるので、周囲の学生からいろいろと嫌がらせや冷笑を受け、それに耐えなければなりませんでした。「聖書の虫」「聖書に凝り固まった者たち」そして「メソジスト」と悪口を言われるようになったのです。

---

 次回は、「ジョン・ウェスレー(下)」をお届けします。