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共産主義の新しいカタチ 19

 現代社会に忍び寄る“暴力によらざる革命”、「文化マルクス主義」とは一体何なのか?
 国際勝共連合の機関紙『思想新聞』連載の「文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜」を毎週水曜日配信(予定)でお届けします。(一部、編集部による加筆・修正あり)

「全権力をレーテに集めよ」と唱える
スパルタクス団➁

急進派幹部2人がスパルタクス団を結成
 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒト(1871〜1919)は、党内に「インターナチオナーレ(国際)派」をつくり党執行部批判を強め、さらにローザは1916年1月、非合法の「スパルタクス団(ブント)」を組織して過激な街頭闘争を展開。社民党に所属する国会議員の主張も分裂し、戦争予算に反対する党執行部反対派は、「社会民主主義共働団」という別個の会派をつくって対抗しました。

▲カール・リープクネヒト(ウィキペディアより)

 これに対し最高実力者エーベルトを中心とする党執行部は、あくまで政府による「上から」の改革を図ろうとし遂に、執行部反対派を党組織から「追放」してしまいます。

 そこで追放された中央派と急進派は1917年4月に「ゴータ会議」を開催、新たに「独立社会民主党」を結成。この党には、軍事予算に反対する平和主義的改良派のベルンシュタインも加わり、スパルタクス団も非合法組織を温存したままで参画。ここに至り戦時下の階級闘争が再開され、議会主義的な政府反対派が登場。が、労組をはじめ多数の国民は、あくまでも従来の社会民主党を支持、独立社民党は少数派として影響力は弱かったのです。

ドイツ革命の「殉教者」と見なされる
 1914年7月のドイツ議会におけるSPD(ドイツ社会民主党)代表としてフーゴ・ハーゼ(中央派)が対露戦争を支持する演説をし、「ブルジョア的ナショナリズム」に跪(ひざまず)いたと映り、「国際派」を自任するスパルタクス団のローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトらは、独立社会民主党に属したものの、孤立を深めます。

 カール・リープクネヒトは、社民党創設者の1人で国会議員を30年務めたヴィルヘルム・リープクネヒトの息子。社民党急進派に属し、第1次大戦下の帝国議会で軍事公債にただ1人反対、ローザ・ルクセンブルクと「スパルタクス団」を結成。そして第1次世界大戦後、ドイツ共産党を結成。1919年にローザと共に、政府の意向を承けた右翼軍人によって殺害されました。

 さて大戦が長期化する中、情勢は三つの方向から「ドイツ革命」へと動きます。第一は「外圧」で、連合国は終戦条件としてドイツ民主化を強く要求。第二は「上から」で、「妥協の平和」を模索していたSPD執行部や自由主義政党が民主化を要求。第三は、ルクセンブルクらスパルタクス団や独立社会民主党による「下から」の動きです。

 ロシア革命に刺激を受けたスパルタクス団らによる「下から」の革命運動が激化していくと、軍部とユンカー(地主層)の保守派が硬化し、「祖国党」を結成して戦争継続を主張、再び指導権を握り、「勝利の平和」を目指します。ところが事態は劇的に変化。1918年秋に英仏両軍がドイツの西部戦線を突破しいよいよ敗戦色が濃厚に。この事態を受け、ヴィルヘルム2世はウィルソンの14カ条を受け入れ、「上から」の民主化を決意。マックス公を首班に民主政権が樹立。その結果、社民党からも2人が入閣し遂に政権入りします。1918年11月になると、ベルリンで労働者の武装ゼネストが勃発、警察や軍隊も放置し、マックス公は政権を放棄。そこに一時的にできるのが共産党政権で、これが「ドイツ革命」です。

 だがドイツ革命はロシア革命とは異なり、SPDのエーベルトが首班となり、彼は社民党や独立社民党内の様々な主張(労兵評議会が政府を監督するなど)を押さえ込み、幅広い民主政党による連立政権を樹立。

▲スパルタクス団による武装蜂起

全権力を「レーテ」に集めよと唱えたローザ
 このドイツ版「ソビエト(労兵評議会)」を「レーテ」と呼びます。ロシアのソビエトは1905年革命の際に自然発生し、1917年の革命で再発生、これを政治権力と巧みに結びつけたのがレーニン自身です。マルクスやエンゲルスはソビエトの発生は想定してはおらず、レーニンはこれをボルシェヴィキ政権樹立のため「利用」した形です。その証拠に1921年、蜂起したクロンシュタット水兵のソビエトの訴えを尊重するどころか、徹底弾圧したのです(クロンシュタットの反乱)。

 スパルタクス団は「レーテ権力に全ての政治を移行」と主張し、武装蜂起による政権奪取を企図。レーテ(ソビエト=評議会)は通常、大工場と軍隊から千人毎に選んだ代議員が実際に行政権を握る考えです。ところがこの時レーテの過半数の代表は、多数派社会民主党を支持。

 煽動的組織活動家のリープクネヒトと大衆的演説家・理論家のローザ・ルクセンブルクの戦略戦術の「温度差」が、ここで現れます。1918年秋の蜂起で街頭で演説しデモ隊のリーダーとなったのは一貫し武装蜂起を主張したリープクネヒトで、ルクセンブルクはむしろ自重を促し、あくまでボルシェヴィズムとは一線を画そうとしました。2人の指導者は実は、性格や戦略・戦術をかなり異にしていました。

 エーベルト首相は、ロシア的ボルシェヴィキ革命を避ける一点でした。ロシア・ボルシェビキ革命が世界に与えた脅威と緊張—日本も参加した「シベリア出兵」—の教訓が生きました。ドイツでは、議会主義派が主流を握り、国民の愛国心の強さが、ロシアとは異なり革命派に正当性を与えなかったのです。エーベルトは革命派に武装解除を迫り、スパルタクス団の相次ぐ蜂起を封じ込めます。「ドイツ革命」はかくして終息したのです。

 しかし議会制民主主義を破壊する「レーテ」は、後世に重要なファクターとなって現れるのです。

「思想新聞」2024年5月15日号より

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