2024.06.11 22:00
小説・お父さんのまなざし
徳永 誠
父と娘の愛と成長の物語。
誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。
第25話「頬をなでる春風を感じながら」
ナオミがまだ幼かった頃のことだ。余命わずかのカオリが聖地で祈りたいと望んだので、家族3人で代々木公園を訪ねたことがある。晩秋の夕暮れだった。
カオリはいつにもまして深く、そして熱心に祈った。私とナオミは、神霊と交流するカオリの目撃者となった。
私は数年前から代々木公園の近くにある出版社に勤めるようになった。
以来、平日の昼は代々木公園を散策するのが日課となった。自然の中を歩くことは体の健康のためだけでなく、心と頭の活性化にもなる。
NHK放送センターの巨大な建物を左に見ながら坂道を上り代々木公園のケヤキ並木通りを真っ直ぐ進むのがお決まりのコースだ。
NHKホールの角を左折して聖地と定められた場所のイチョウの木を目指して進む。野外ステージ、球技場を右手に見ながら直進し、その先を右折すれば、バスケットコートのすぐそばにその老樹は姿を現す。
春になれば、イチョウは緑の葉に覆われる。小さな若葉は気温の上昇とともに大きく育ち、緑葉は季節を経て黄色く色付く。秋には黄蘗(きはだ)色に輝く。青空とのコントラストは明るい心を喚起し、敷きつめられた黄金色のじゅうたんは人々の心を癒やす。
季節の変化を知らせたいと思い、時にはスマホで撮影した画像を短いコメントと共にナオミに送った。
聖地から一番近い歩道橋を渡れば代々木公園の南門に続く。渋谷門に通じる展望デッキ歩道橋に比べて南門に向かう歩道橋は道幅がやや狭い。こんもりとした丘を登るように橋を渡り、近くに迫る木々に覆われた軒下をくぐる。別世界に通じるトンネルを歩いているようだ。
南門から梅の園と桜の園の間を通る道を、丘の広場に向かって歩く。大木の木漏れ日の降り注ぐベンチに座って簡単に昼食を済ませたら、今はサイクリングコースとなっている舗装された道を越えて、屏風(びょうぶ)のように立つ4本の大木に仕切られた雑木林を目指す。
そこは1973年に文鮮明(ムン・ソンミョン)先生夫妻が訪れ、何千人もの統一教会(現・家庭連合)の教会員が集まって集会が行われた場所だ。当時、文先生は53歳、令夫人は30歳であった。
現在は雑木林となっているが、当時は数千人が集まることのできる広場だ。
4本の大木を背に、大集会のステージとなったその場所に立てば、1970年代、世界に拡大し始めた世界宣教の息吹を感じることができる。
そこが昼の散歩コースの折り返し地点。4本の木の一つ一つに手を触れながら、半世紀も前の出来事を想起し、振り返る。
南門から再び聖地のイチョウの木に戻って「また来ますね」と声をかけたら、陸上競技場を左に回り込んで井の頭通りに出る。
コンビニで昼食を買う時間を含めて、この巡礼ともいえる散策のコースを1時間で回るのが平日の「お勤め」となった。
継続は力なり。これが続けば健康にも良いはずだ。
歩くことは考えることでもある。散策は思索を招く。思考を回転させるための適度な刺激をもたらしてくれるのが散歩の効用でもある。仕事のこと、親のこと、そしてナオミのこと…。思いは巡る。
無事に就職先が決まったナオミだったが、人生の進路について一度ゆっくりと話し合わねばならない、そんな思いが繰り返し私の脳裏に去来していた。
大学生になってナオミの足は教会から遠ざかった。大学生活や友人との時間が優先された。
「ナオミ、今度の土曜日、お父さんと一緒に代々木公園でも歩かないか」
「代々木公園? パパは毎日歩いているんじゃないの?」
「そうさ。代々木公園に通った回数なら、誰にも負けない自信があるね。何度も歩いているからこそ、ナオミを案内したいんだよ。明治神宮とセットでどうだい? ランチはナオミの好きなお店でいいぞ」
「そうだね。特に予定も入ってないし、久しぶりのパパとのお出かけだよね? かわいい一人娘、父上のオファー、謹んでお受けいたしましょう!」
おどけたレスポンスを返すナオミだが、私がなぜ代々木公園の散策に誘ったのか、ナオミは分かっている。ナオミ自身も父親の思いと向き合わなければならないと考えていたからだ。
その日の朝。朝食と洗濯を済ませて、私とナオミは一緒に家を出た。
春の陽気が気持ちいい。山を歩くわけではなかったが、二人ともトレッキングシューズをしっかり履いて別世界を目指す。文字どおり、アウトドアだ。
渋谷駅ハチ公口のスクランブル交差点にはすでに多くの人々が往来していた。
4月は活気にあふれている。若者たちは新しい風に乗って前を向く。
ナオミは大学4年生。22歳の誕生日をすでに迎えている。
ナオミが大学生になった時、私は一つの願いをナオミに告げた。
「ナオミには、大学生のうちに教会の21日修練会に参加して、統一原理をしっかりと学んでほしいと思っている。それは押し付けるものでもないし、強要するものでもない。ナオミが生きていくための人生の意味を見いだしてほしいからだ。21修を通して、統一原理を改めて学んでほしい」と。
高校時代のナオミは勉学と部活に明け暮れた。目標に向かって全力を尽くすナオミの姿は輝いていた。
私はナオミに学問の大切さを説いたし、ナオミは親の期待する以上にそれに応えてくれたが、高校生から大学生の時期は、自分がどんな人生を生きたいのか、人生の意味をどのように捉えて生きていくのかという問題に対して真摯(しんし)に向き合うべき時でもある。
進路問題とは、単に生計を立てる手段としての職業を決めることではあるまい。幸福な人生を生き、平和な世界に住みたいと願うのなら、それを実現し得る生き方を自ら見いださなければならない。それこそが進路問題の本質ではないか。
「ナオミ、フランスの画家のポール・ゴーギャンって知っているかい?」
「うん、知ってる。何かの本で作品もいくつか見たことがあるわ」
「“われわれはどこから来たのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへ行くのか”っていう作品は知ってる?」
「うん、確か見たことあると思う。横に長い絵だよね? 人間の一生を描いたものだって聞いたことがある。すごく印象的だったことを覚えてるわ」
「そうだね。ゴーギャンの作品の中でも、最も有名な絵画の一つだ。
ゴーギャンの精神世界を表したものだといわれているけど、人生に対する人類普遍の問題意識が表現されている作品だと思うよ。
古今東西、人は誰もが人生の三大疑問といわれるこの三つの問いかけに向き合わなければならなかったということだ。
統一原理の内容は、この三つの問いかけに熱意と誠意を持って答えてくれているものだとお父さんは思ってる」
いつもの散策コースに沿って二人で歩く。
聖地から南門に向かう歩道橋の上だった。
「聖地でお祈りした時、以前、パパが話してくれたゴーギャンの絵のことを思い出したの…」
ナオミは前を向いたまま話を続けた。
「こうやって歩いていると、ゴーギャンの絵のように、人は何のために生まれて、何のために生きて、どこに向かって生きているんだろう?って考えてしまう。ママももっと生きたかっただろうし、やりたいこともたくさんあったよね。私もママと一緒に生きたかったし、私の人生をママにも見てもらいたかったな」
南門を抜け、私たちは気の向くままに歩き続けた。時折、爽やかな風が二人の間を通り抜ける。
「パパって、大事なことは家の外で話したいんだよね? だから今回も代々木公園の散策に誘ったんでしょ?」
「そうか? まあ、家では家事が忙しいからな…」と、私の返答は説明になっていない。
「パパの言いたいことは分かってるつもり。夢と志を持って生きよ、人生の意味を知って生きよ、でしょ?」
「ああ、そうだ。分かってるじゃないか。さすがわが自慢の娘だ」と私は冗談めかす。
「ナオミ、お父さんが志だとか、人生の意味を強調する理由は、以前話したよな」
私は暗記するほど気に入っている文鮮明先生の自叙伝の一節をそらんじてみせた。
「私たちは全員、偉大な人間として創造されました。何の意味もなく皆さんがこの世界に出てきたのではありません。神様は、自分のすべての愛を注いで私たちをつくりあげられたのです。ですから、私たちはどれほど偉大でしょうか。神様がいらっしゃるので、私たちは何でもすることができるのです」
「お父さんも、ナオミも、偉大な人間としてこの世に生を受けたんだ。それが人生の意味だ。私たちは皆、偉人なんだよ。何でもすることができる。できないことはないというんだからね。すごいことじゃないか。
この一節を思い浮かべるたびに力が湧いてくるよ。この言葉だけでもお父さんにとっては神の存在証明になる」と、私はナオミに直球を投げる。
「あなたの若き日にあなたの造り主を覚えよ、でしょ?」とナオミもテンポよく返す。
私たちはいつの間にか、4本の大きな木の前に来ていた。半世紀近く前、文先生夫妻が何千人もの若き教会員たちを前に集会を行った場所だ。
私たちはレジャーシートを敷いて腰を下ろした。
温かな風に身を任せながら、しばらくの間、それぞれの時を過ごす。
「分かってる。この一年は、私の人生の志を決める大事な年になる」
木々の間からのぞく青い空と真っ白な雲を眺める。
ナオミは頬をなでる春風を感じながら誓いを立てた。
【登場人物】
●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
●川島知佳(チカ):ナオミの親友、大学時代にナオミと出会う
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次回もお楽しみに!