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小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。
 誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。

24話「ミルクティーの香りと共に」

 JR新宿駅東口から歩いて3分ほどの場所に紀伊國屋書店がある。新宿本店前のスペースは待ち合わせによく使われる場所だ。

 ナオミと私はそこで待ち合わせた。フィリピンから帰国したナオミの話を「新宿」という場所でじっくり聞きたいと考えたからだ。

 「パパ、話をするだけなら、うちでいいんじゃない? わざわざ外で会わなくても…」

 今はナオミと私の二人暮らし。二人だけで話すなら家で事足りそうなものだが、時には場所を変えて向き合ってみるのも親子のコミュニケーションには必要なことだ。

 「実はね、お父さんのお気に入りのカフェが新宿にあるんだ。一度ナオミを案内したいと思っていたんだよ。今度の土曜日、午後の時間帯にどうかなあ」

 「まあ、いいけど」と、ナオミは父親の魂胆を探るように視線を返した。

 お気に入りのカフェは紀伊國屋書店新宿本店の裏手の路地を一つ越えた靖国通り沿いにある。

 ジャズ喫茶「DUG」。

 妻のカオリと、結婚前に将来について語り合った思い出の場所でもある。

 ジャズが好きな私にとって、ジャズが流れている空間はホームグラウンドのようなものだ。大切な人とは「DUG」で話をする。

 手前勝手かもしれないが、自分の土俵で自分の相撲を取れる感じがいい。要するにリラックスできる場所なのだ、そこは。

 「DUG」は地下にある。狭い階段を下りる。穴倉の別世界に入っていく感じがいい。

 ナオミも気に入ってくれた。
 席に着くと、バッグを隣の席に置きながら「雰囲気いいね。パパが好きそうな感じ」と一言。そして店の中をまんべんなく見渡す。

 何でも観察して、自分の五感でじっくり確かめないと気が済まないのがナオミのライフスタイルだ。

 ジョン・コルトレーンの「My Favorite Things」が流れる。ソプラノサックスの響きが心地いい。

 ホールスタッフにオーダーを告げる。
 ジャズについて語りたくなる気持ちを抑えて私はナオミの瞳をうかがった。

 「ナオミ、改めてフィリピンでの体験をじっくり聞かせてもらおうかな」

 「パパは私の話よりジャズの方がいいんじゃない?」

 「まあ、そう言うな。今日はナオミの貴重な海外体験を聴くためにわざわざ新宿まで来たんだからな」

 そう言いながら、私は隣の席に視線を移す。今日のカオリはナオミの隣ではなく、私の隣に座っているはずだ。

 「そうねえ。ひと言で言えば、今回のスタディーツアーを通して、何も分かっていなかった自分なんだなって分かったの」

 「へえ~、深いなあ。“無知の知”ってこと?」

 「国際協力のことも、フィリピンのこともね、ママのことがきっかけだったでしょ? ママの背中を追いかけて、ママの思いや考えが知りたくて、ママの存在感を求めてたってことかな。それが生きる動機になっていたんだと思うの。
 ママがたどった道を行けば、ママに認めてもらえるんじゃないかっていう思惑があったのよね、きっと。
 確かにミンダナオ島で活動している時はママが身近にいるような感覚もあったし、すごく満たされた気持ちもあったわ。ツアーに参加した他のメンバーとも活動を楽しめたし。
 でもマニラのスモーキーマウンテン地域の視察では、同じチームのチカと一緒になって落ち込んじゃって、なんだか無力感の方が強くなっちゃってすごく苦しかった。
 貧困や格差の現実を目の当たりにして、国際協力だとか支援だとか、社会課題の解決なんて、私たちには無理なんじゃないかなって思ってしまったの」

 冷めたコーヒーを半分まで減らすと、ナオミは再び語り始めた。

 「あの時は、人類一家族っていうこともよく分からなくなったの。ために生きるって、具体的にはどうすればいいの? 共に生きるってどういうこと? 本当にできるの?って思った。
 子供たちと一緒にゲームしたり、歌を歌ったり、ダンスしたり…。それはそれで楽しかったし、子供たちもすごく喜んでくれていたと思う。でも…」

 ナオミはカップを手にしたまま、しばらくコーヒーの表面に映る自分の顔を見つめていた。
 私はうなずくだけで、ナオミの次の言葉を待った。

 「人の人生にもっと真剣に向き合わないといけないなって思ったの。自分の人生に対しても、目の前の子供たち一人一人の人生に対しても…。
 政治のこと、宗教のこと、社会や教育のこと、貧困や格差…、生きる意味ってなんだろうって考えさせられた1週間だった。
 短い期間だったけど、異文化の違いもすごく感じたし、カルチャーショックも結構あった。
 フィリピンのことも何も分かっていなかったけど、日本のこともよく分かっていなかったってことが分かったの。
 何よりもショックだったのは、壁にぶつかった時に自分で結論を出せるものが一つもなかったってこと。
 人類は一つの家族だって考えれば何でも超えられるって信じていたけど、じゃあどうすればいいの、どう生きていったらいいのって思うこともあった。
 どんな宗教も世界の平和を願っているし、愛し合うこと、助け合うことの大切さを教えてる。でも、現実は何も変わらないんじゃないのかなって…」

 「…そうだね。理想と現実のギャップはそう簡単に埋められるものじゃない…」

 「うん、でもね。逃げ出したり、放棄したりしたくないなって思った。もっと理解したかったし、納得できるようになりたいって思った。物事に対してちゃんと自分で判断できて、行動できる自分になりたいなって思ったの。
 統一原理で教えられたことも、言葉だけじゃなくて、自分の課題、自分の人生の問題として捉えないといけないなって思った」

 「そうなんだね…」

 「乳離れしなきゃいけないって思ってる。精神的に自立しないといけないなって思ったの。信仰的にもね。
 ずっとママの面影に甘えてきたし、信仰のことも親任せできちゃったなって思うの。
 “あなたはどのように生きていきたいのか”って、ずっと問われている感じがしたの。どう生きるべきなのかを本気で考えなきゃって思ってる。
 本当に神様の夢を自分の夢にできるのか…。神様を中心に生きるってことも、先送りできないことだなって思い始めてる…」

 店内にはビル・エバンスの「Waltz For Debby」が流れ始めた。
 二人はしばらくリズミカルなピアノの演奏に身を委ねた。

 「ナオミ、コーヒーおかわりする?」

 「紅茶がいいな。ミルクティーにしてもいい?」

 今日のコーヒーの味がナオミの思い出に残ることはないだろう。
 私はホールスタッフに声をかける。

 「ミルクティーを一つ。それと、今の曲が終わったらベニー・グッドマンの『Memories of you』、リクエストできますか?」

 20年以上も前にカオリと過ごした「DUG」での時間を回想しながら、私は心の声で妻に話しかける。

 「カオリさん、ナオミのこと見守ってくれてありがとう。ナオミの成長ぶり、本当にうれしいね。君のおかげだよ。ナオミはどんなにか君から力をもらってきただろうか。ナオミは大人になったよ。しっかりと自分の足で歩こうとしているよ」

 目の前のナオミはミルクティーを満足げに味わっている。

 「不思議なんだけど、ミルクティーの香りって、ママのことを思い出させてくれるの」

 ふいに記憶の細部がよみがえる。
 この場所で「Memories of you」の曲を聴きながら、ミルクティーをおいしそうに飲んでいたカオリの笑顔だ…。

 「これからはナオミのこと、後ろから見守っていくわね」

 カオリの声が私の心に響く。
 喜びの心情が伝わってくる。

 私たちの家庭も少しずつ成長し、また一つ、家族という樹木の年輪を刻んでいく。


登場人物

●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
●川島知佳(チカ):ナオミの親友、大学時代にナオミと出会う

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 次回もお楽しみに!

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