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小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。
 家族のために、そして世のため人のために奮闘するお父さんのまなざしをフィクションでお届けします。

23話「神の下の一家族…」

 フィリピンの首都の喧騒(けんそう)の主役はクラクションだ。人も車も年々増加している。
 マニラの交通渋滞はひどいものだ。日本人の時間観念を瞬殺する。
 窓を開ければ、騒音と熱風が容赦なく車内になだれ込む。

 スタディーツアーの参加者一行はミンダナオ島から国内線でマニラに移動した。

 あふれる騒音と排気ガスは、ミンダナオののどかな農村の風景の記憶を別世界の奥底に閉じ込めた。

 車道を行き来しているのは、自動車やオートバイだけではない。物売りをする人々も少なくない。

 物売り、物乞いをする人々の活動場所は、路上ばかりではない。

 狭い車間をすり抜けて移動する子供たちのなんと多いことか。

 「あっ、危ない!」

 日本の若者たちの声が車内に跳ねる。

 車中から見つめるナオミたちの視線の先には子供たちの姿があった。

 少年たちが車に近づいてくる。恐れる様子も見せず、彼らはウインドーガラスを遠慮なくたたく。

 砂塵(さじん)を避けるためなのだろう。酷暑の中にあっても顔を布で覆っている者も少なくない。

 日本の青年たちがざわめく。

 「ストリートチルドレンっていうんだよな。俺初めて見たよ」

 「危ないよな。車にひかれちゃうんじゃないの?」

 実際、車道での物売りは命懸けなのだ。車にはねられて死亡するケースもある。

 ほこりにまみれ、痩せこけた無表情の瞳から感情を読み取ることは難しい。

 ごみ山が発火して煙ることから「スモーキーマウンテン」と名付けられた地域がある。ナオミたちは、そこで暮らす子供たちが通うトンド地区の小学校を訪ねた。

 マニラ市トンド地区は東南アジア最大のスラム街だ。圧倒的な貧困の現実は異邦人たちの善意を押し返す。

 日本の支援団体であるNGO(非政府組織)のメンバーたちが学校を訪問したのは、児童たちに絵本や文具を提供し、フィーディングサービスと交流の時間を持つためだ。

 フィリピンのほとんどの学校は、児童生徒たちに制服を着用させる。制服は子供たちの誇りでもある。
 制服は時に彼らの格差を覆い隠す鎧(よろい)の役目を果たす。

 子供たちが空腹を感じて過ごす時間は決して短くない。貧困層の子供たちにとって食べることは最優先事項だ。

 動ける者は生計を立てるために働かなければならない。家族のために働くのだ。
 劣悪な環境であっても、食べるために、生きるために、幸福であろうとするために働くのである。

 「ナオミ、なんでだろう。胸が苦しいよ」

 スタディーツアーの参加者の一人で、同じ女子大生のチカが、トンド地区での活動を終えた後、ふいにナオミに訴えた。

 「私もう駄目かも。臭いは耐えられないし、こんなに汚い環境、もう我慢できない。覚悟はしてスタディーツアーに参加したつもりだったけど、子供たちと笑顔で接するのももう限界…。
 私はたまたま日本に生まれて、なんの不自由も感じないまま生きてきた。貧しいと思った体験もしたことはないわ。
 あの子たちはたまたまそこに生まれて、幼い頃からこんな環境で生きてこなければならなかった…。自分の意思で選んだ人生じゃないよね?
 なぜこんなにも違うの? 意味が分からない…。つら過ぎて、私の頭の中も、心も混乱してる…」

 ナオミはチカの手を握って彼女の心の叫びを全て受け止めようと思った。
 何が正しいとか正しくないとか、そういう問題ではなく、チカが感じたことを全部受け止めて、同時に自分の思いも見つめ直して、そのまんまをスタディーツアーの体験として受け入れなければならないと考えたからだ。

 「そうだよね。私もなんで?って思うよ。現実を目の当たりにして、大学で学んできたこと、頭では理解していたつもりのことも、どれも観念的だったなって…。
 私の心も穏やかじゃないし、もやもやしてる。葛藤もあるよ。
 子供たちのことはすごくかわいいし、いとおしくてたまらないっていう気持ちもあるけど、でも彼らの人生と向き合って、本当に共に生きられるのかなって、正直感じてる。みんな同じ人間じゃないかって思うけど、現実に直面してみてすごく困惑してる。
 格差や貧困の問題をどうやって解決するのかなって考えちゃうし、人を助けるってどういうことなのか、人を支援するってどういうことなのかってずっと考えさせられているわ」

 ナオミの心の画面にはぼんやりと「神の下の人類一家族」という文字が映し出されていた。

 「人類が一つの家族のように生きるってどういうことなんだろう。家族のように助け合うってどういうことなんだろう…」

 ミンダナオの農村で見せられた貧困と、マニラで見た貧困とは何かが違う、とナオミは思った。

 「ママ、教えて」

 ナオミはカオリを求めた。

 ミンダナオでは、確かに国境を超えた家族愛が感じられたし、子供たちを心から愛せたとナオミは思っていた。
 フィリピンの人々との夢のような出会いを体験し、人類が一つの家族のように生きられると心から信じられた。

 ミンダナオで感じたあの思いは何だったのか。
 たった一日で、ナオミの心は天国から地獄に放り出されたように、彷徨(ほうこう)していた。

 「私は何のためにフィリピンに来たの? 私はなぜ国際協力がしたいの?」

 ナオミは自問自答した。

 「貧困の中で生きている子供たちがかわいそうだったから? 誰かを助けることで優越感に浸りたかったから? 愛だと感じていたものは自己満足の同情心でしかなかったのか…」

 ナオミはその夜、眠れなかった。
 覚醒した状態の中で一晩中自らに問い続けた。

 神からもカオリからも答えはなかった。

 でもナオミは、もっと祈るべきだと思った。答えを得るまで求めなければならないと思った。

 人を助けるとはどういうことなのか、人を愛するとはどういうことなのか。
 ナオミは心底知りたいと望んだ。

 眠れぬまま朝を迎えた。

 フィリピンでの滞在はもう一日残されている。

 窓の外から音楽が聞こえてくる。クラリネットの音色だ。

 Memories of You…。

 「え? どうして?」

 メロディーに絡むように言葉が耳元に流れ込む。

 「ナオミ、神様はいらっしゃるのよ。それを忘れないで」

 「神様はいらっしゃる。神の下の一家族…」と、ナオミは声に出してみる。

 「ママ、そうだね。神様の立場に立って見ること、感じてみること、考えてみることが大事なんだよね」

 朝日がまぶしかった。

 世界が明るく照らされて、昨日まで見えなかったものが見えてきたとナオミは感じていた。

 秒単位で強くなっていく光と熱を受けながら、太陽の上昇とともにナオミの心も明るく熱く、そして強くなっていく。

 「お日様に感謝だな」

 ナオミは神を信じたいと思った。神が共にあるなら何でもできるのだと思えた。

 「今日は子供たちとしっかりと向き合おう。
 人類が兄弟姉妹として支え合うことを父母なる神様は望んでいる。今は素直にそう思える。
 どんなことがあっても、私の中にある心の国境を超えなければ…。
 それが父母なる神を中心とする国際協力なんだと思う」

 午前9時。
 朝食を済ませた日本の若者たちがマイクロバスに乗り込む。

 実質今日が活動の最終日だ。トンド地区の子供たちとの交流プログラムがバランガイ(フィリピンの最小の地方自治単位)の野外ホールで行われる。

 「チカ、大丈夫? 今日は弟や妹たちをいっぱい元気にしちゃおうね」

 「ナオミ、いろいろありがとう。昨日はなんだか混乱しちゃって、ちょっとへこんじゃったけど、今は大丈夫。みんなのアテ(タガログ語で“お姉さん”の意)になるわ」

 「そうだよ。心の国境を超えた家族愛を実践するために私たちは今ここにいるんだよ。家族だから助けたいんだよ」

 ナオミは自分自身に言い聞かせるように前を見た。
 その胸にはクラリネットが抱きかかえられていた。


登場人物

●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野尚実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母

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 次回もお楽しみに!

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