2024.05.14 22:00
小説・お父さんのまなざし
徳永 誠
父と娘の愛と成長の物語。
誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。
第22話「Memories of You」
空気が違う。気温や湿度の違いだけではない。日差しの強さも明るさも、そして空の広さも日本とは違う。噴煙のような夏雲がもくもくとどこまでも連なる。
ナオミは灼熱(しゃくねつ)のアスファルトの上に立っていた。
太陽の照り返しが強い。大きな空を見上げる。北緯9度、東経125度に降り注がれる陽光は、目を開けているのもつらいほどだ。
フィリピンは、一年のうちでも5月が最も暑い。40℃を超えることもある。
ナオミが訪れたミンダナオ島は、首都マニラのあるルソン島よりもさらに南に位置する島だ。その日差しはマニラよりも強く、そして明るい。
大学2年、二十歳になったナオミは、NGO(非政府組織)団体が企画するスタディーツアーに参加した。
ミンダナオ島北東部地域、アグサン川の河口付近に位置するB市を訪ね、国際協力団体が継続的に教育支援を行っている農村の子供たちと交流するためだ。
貧困問題はいまだ地球上からなくなっていない。
世界の貧困国では、のおよそ35%が学校に通っていない。
フィリピンにおいては、小学校に入学した子供たちのうち、義務教育課程のハイスクールまで卒業できているのは約3割というデータもある。多くの子供たちが、貧困問題を背景にドロップアウトしてしまうのだ。
貧困の世代間連鎖は、フィリピンの深刻な社会問題の一つである。
「私は今、フィリピンにいるのだ」
ナオミは自分が今どこにいるのかを確かめるようにつぶやいた。
「ママ、私もフィリピンに来たよ。中学の時からずっとママの背中を追いかけてきた。おばあちゃんに教えてもらった十代の頃のママの生き方が私を導いてくれたんだよ。
ママみたいな生き方がしたい。ずっとそう思って生きてきたよ。私も誰かの助けになりたい、苦しんでいる子供たちを助けようって」
高校生の時、ナオミは吹奏楽部に所属した。
音楽は国境を超える―。絵を描くことも好きだったが、何か楽器ができることで、国際協力や国際交流の役に立てられるのではないかと考えたからだ。
ナオミはクラリネットを選んだ。
ナオミがクラリネットに興味を持ったのは、ジャズ好きの私がベニー・グッドマンの「Memories of You」を聴かせたことがきっかけだった。
受験勉強の合間に、気分転換になればと、温かいココアと一緒に曲を聴かせたのだ。
「ナオミ、Memories of Youっていう曲はね、ママが気に入ってくれた曲でもあるんだよ」
「へえー、そうなんだ。聴いてみたいな」
ナオミは母親のことならなんでも関心を示した。
「この楽器はなあに?」
「クラリネットだよ。吹いているのは、ベニー・グッドマンっていう、すごく有名なジャズのクラリネット奏者なんだ」
「この曲のタイトル、日本語だと“あなたの思い出”って意味だよね。パパとママにとっても思い出の曲、ってことだね。
いい感じ、私も好きになるかも」
カオリが好きだったものはナオミも好きになる。
クラリネット。高校生になってからの挑戦となったが、熱心に練習に励んだ。
ナオミはクラリネットの柔らかく温かな音色の中に母親の愛情を見いだしていたのかもしれない。
スタディーツアーに参加したナオミは、クラリネットを持参した。フィリピンの子供たちと音楽で交流したいと考えたからだ。
子供たちとの交流プログラムでは、参加者全員でダンスを踊り、歌を歌った。子供たちが大好きなゲームや遊びも一緒に楽しんだ。ほとんどが小学校の児童たちだった。
ナオミは日本側の代表として、ソロでクラリネット演奏を披露した。
曲は、「夢をかなえてドラえもん」。高校の時に吹奏楽部で仲間たちと何度も練習し、定期演奏会でも発表した曲の一つだ。
フィリピンの子供たちに夢を持って生きていってほしい、そんな願いを込めて準備した曲だった。
漫画やアニメもまた、国境を超える。
フィリピンの子供たちもドラえもんが大好きだ。主題歌も歌える。
演奏が始まると子供たちはじっとしていられない。目をキラキラさせながら立ち上がり、一緒に歌い出す。
首筋から、背中から、汗が吹き出る。ナオミはその汗をぬぐうこともなく、子供たちを喜ばせたい一心で演奏に集中した。
「30年前のフィリピン。ママの心の目にはどんな風景が映っていたの?」
拍手喝采。
歓喜の声を上げる子供たち。大人たちもビッグスマイルでナオミに賛辞を送る。
駆け寄る子供たち。
ナオミは子供たちがいとおしくてたまらなかった。
「この子たちは私の弟や妹なんだ」
ナオミは心からそう思えた。
「かわいそうだから助けるんじゃない。家族だから助けたい、のだ。
弟、妹たちを見守ってあげたい。この子たちの成長を手助けしたい。この子たちにも夢と志を持って生きてほしい」
ナオミは愛することの喜びに目覚めていた。心の深い所に国境を超えた家族愛の種が芽吹くのを感じていた。
ナオミは大学で国際開発や国際協力について学んでいる。国際社会の課題をどのようにして解決するのか。それが大学で学んでいるテーマだ。
いくつかの外国語も学び、異文化理解や異文化間コミュニケーションについても研究している。
「人類を一つの家族だと思える心。子供たちをいとおしいと思うその心が、真の支援の出発点になるのかもしれない…」
ナオミは子供たちの歓声と笑顔に囲まれながら、そんな思いを抱いた。
「アテ(タガログ語で“お姉さん”の意)・ナオミ、また会えるの?」
交流の間中ずっとナオミのそばを離れなかったクリスティンという女の子がナオミに尋ねる。
ナオミは一瞬戸惑ったが、かがんでクリスティンと目を合わせながら、ゆっくりと英語とビサヤ語で答えた。
「クリスティン、あなたと会えてよかった。私はすごくハッピーよ。会えなくなるのは寂しいけれど、あなたを妹のように愛している。
約束はできないけれど、いつか必ず会いに来るわ。
あなたが学校に通うことができるよう、あなたが夢と希望を持って生きていけるよう、そしてあなたが誰かを助ける人になれるように、海の向こうからいつも祈っているね。
クリスティン、ギヒグマ・チカ(あなたを愛してる)。サラマッ(ありがとうね)」
真夏の熱い交流の時間はあっという間に過ぎた。
ナオミは、国境を超えた家族愛の絆を固く結んでくれたクラリネットを大事に胸に抱えながら、宿舎へ向かう車窓から沈む夕日を静かに見つめていた。
「心の国境を超えて出会った弟、妹たち。この子たちとの家族愛の絆を大切に育んでいこう。
宗教の違いも、国の違いも越えられない問題じゃない。私たちの心に国境は存在しないのだ」
今のナオミには、そう思えていた。
ナオミは家族愛の心で見つめることの素晴らしさをかみ締めた。
頭の中ではベニー・グッドマンの穏やかなクラリネットの音色が流れている。
Memories of You、あなたの思い出。
南国に沈むだいだい色の夕日と共に、また一つ、ナオミの心に愛と成長の証しが刻まれた。
【登場人物】
●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母
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次回もお楽しみに!