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サンダー・シング

(光言社『中和新聞』vol.513[1999年6月1日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

ヒンドゥー教形式で伝道
インド的特色でイエスを証す

 サンダー・シング。日本ではあまりなじみのない名前かもしれません。巡礼僧サドゥー(「聖なる人」の意味)の衣を身にまとい、ヒンドゥー教の形式によるキリスト教伝道を試みたインドのキリスト教神秘主義者です。

▲サンダー・シング

 サンダー・シングは北インド、パンジャブ地方のシーク教の裕福な家に生まれました。母は教養ある宗教的な女性で、宗教的雰囲気の中で育てられた彼は、10代にしてインドのあらゆる宗教に通じていました。その母を14歳の時に亡くしたことが、真の救いを求める契機になったといいます。

 しかしヒンドゥー教、仏教、イスラーム(イスラム教)といったインドの諸宗教によっては、平安を見いだすことができませんでした。小学校はキリスト教の学校に通いましたが、キリスト教に対しては、敵国(英国)の宗教として憎悪の感情を持っていました。聖書を焼き捨て、宣教師に石を投げつけるなど、迫害の先頭に立っていました。

 サンダー・シングは早くも15歳で生きることに絶望し、自殺を決意します。夜を徹して神に祈り求めると、そこに予想もしなかった人物が光り輝く姿で現れました。それはパウロを回心に導いたイエス・キリストでした。

 「おまえは、なにゆえ私を迫害するのか。私がおまえのために十字架で、わが命を捨てたことを思い起こせ!」

 19041218日のことでした。翌年、彼は英国教会で洗礼を受けます。キリスト教に回心したサンダー・シングを待っていたのは、家族からの反対、行く先々での迫害でした。当時のインド、特に彼のいたパンジャブ地方では、クリスチャンの多くは最下層の人々から出ており、家名を汚すことを恐れた親族は彼を毒殺しようと試みたのです。

 奇跡的に命を取り止めたサンダー・シングは、その後、インド、チベット、ヒマラヤ各地で伝道しながら『神との対話』『実在の探求』『霊界物語』などの著作を刊行しました。さらに日本、中国、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなど世界中を飛び回り、キリストを証し続けました。そこで語られたメッセージは、多くの人に感銘を与えています。

 「聖パウロ、聖アウグスティヌスのように、サンダー・シングはインド的特色の中でキリストの光を世界に照らした。彼と共に過ごした後では、我をも彼をも忘れ、ただキリストのみを思う」(オックスフォード大学、ストリーター博士)

 サンダー・シングは多忙の中にあっても祈りを欠かさず、常に祈りの重要性を説きました。彼は1920年を前後して二度の世界伝道を行いましたが、迎えられた国々で見たものは、物質主義と忙しさのために失われゆく霊性でした。「偉大な指導者が出ない限り、アメリカは滅びる」と預言し、日本に対しては次のように警告しています。

 「日本は、霊魂を滅ぼす西側の物質主義の洪水に、自ら飛び込んだ。今の日本は、この世的偉大さしか眼中にない。神の言葉を聞く耳を持たない。……もっとも悪しきことに、日本は仏教すら真面目に受け取っていない。寺社はどこもかしこも、観光客とガイドだらけで、その数は信仰する者の数を上回っている」

 「第二の聖パウロ」「東洋の聖フランシス」などと称されたサンダー・シングはキリストのように33歳で死ぬことを願いましたが、それを果たすことはできませんでした。

 病身を押してチベット伝道に情熱を燃やしましたが、19294月、40歳の時、その地で行方不明になりました。約束の地を目前にピスガ山上で最期を迎えたモーセと同じく、彼の死体もついに発見されることはありませんでした。

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 次回は、「スウェーデンボルグ(上)」をお届けします。