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アウグスティヌス(下)

(光言社『中和新聞』vol.512[1999年5月15日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

アフリカ初の修道院開く
執筆活動で大きな業績、『神国論』が国家理念に

 3868月初め、32歳のアウグスティヌスはキリスト教信仰に入る決心をした。

▲アウグスティヌス(ウィキペディアより)

 アウグスティヌスは修辞学教師を辞め、ミラノの北方約30キロにあるカッシキアクムにある山荘で修道院的共同生活を始めた。その後ミラノで洗礼を受け、ローマに1年滞在した後388年秋、念願のアフリカ帰省を果たした。

 アウグスティヌスは故郷の町夕ガステでアフリカ初の修道院を開いた。391年にはヒッポ・レギウス(カルタゴに次ぐアフリカ第二の都市)教会の司祭職に就任し、396年には司教になった。

 司教としてのアウグスティヌスにはなすべき務めが多かった。教職者の教育、裁判への責務、マニ教、ドナトゥス派、ペラギウス派、異教徒たちとの絶え間ない論争。しかしいちばん精力を注いだのは説教に対してであった。教会の牧者として過ごした40年間に4千の説教をしたといわれている。

 その働きはヒッポの町を越えて他の地域にまで及び、アフリカの教会は次第に発展していった。

 またアウグスティヌスが執筆活動において残した業績は大きい。『再考録』で言及されている作品数は93冊、その他著書だけでも二十余冊はある。

 『告白録』『神の国』『三位一体』などは現代に至るまで、いつの時代でもよく読まれた。アラビアのアウグスティヌスと呼ばれたガサーリも、イタリアのヒューマニスト、ペトラルカも『告白録』に夢中になった。フランスの思想家モンテーニュも『神の国』を愛読した。

 カロリング王朝を建てたピピンの息子であるチャールズ大帝も、早くから『神国論』を崇拝し、王位に就くやいなや『神国論』を国家理念とする君主国家を建てようとした。

 そして中部ヨーロッパを統一し、民族の大移動によって混乱に陥っていた西ヨーロッパを安定させて、強力なフランク王国を確立したのである。

 アウグスティヌスの影響を受けて建てられた修道院や、彼の教えを規範とした修道院も多い。アウグスティヌス隠修士会(1256年成立)、アウグスティヌス修道参事会(1329年成立)、フランスのクリュニー会、イタリアのフランチェスコ会などである。

 彼の名前がいつ我が国で知られるようになったかは明確でないが、16世紀末、一部のキリシタンの間では知られていた。1591年、島原半島の加津佐で出版された『丸血留の道』にはアウグスティヌスへの言及があるし、1602年にはアウグスティノ会士が来日し、教会を建てている。

 さて429年、南イスパニアにいたヴァンダル族がアフリカに渡った。アフリカの町は彼らによって次々に破壊されていった。4306月、ヴァンダル族はヒッポを包囲した。

 蛮族の叫びにおびえ、死の恐怖に町が包まれる中、アウグスティヌスは熱病に倒れた。そして828日、76年の生涯を閉じた。

 ヴァンダル族は包囲14か月目にヒッポになだれ込み、町を占拠し、破壊した。アウグスティヌスが40年かけて築いたものは無に帰した。しかし幸いなことにアウグスティヌスが建てた修道院と図書館は残った。

 アウグスティヌスの死に立ち会い、その後伝記を著したポシディウスは「アウグスティヌスはその著作の中に生き続けている」と記している。

(『アウグスティヌス伝』31)

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 次回は、「サンダー・シング」をお届けします。