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幸福への「処方箋」27

 「幸福への『処方箋』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けいたします。

野村 健二(統一思想研究院元院長)・著

(光言社・刊『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』より)

第五章 堕落性からの脱却

 前章では、対人関係を組み立てるに当たって、利己主義でも、利他主義でも、公益主義でもなく、神主義。その中でも統一原理の「正分合」―共通目的と授受作用というもののとらえ方が重要だということについて述べました。しかしこの「正分合」という問題の立て方だけでは、自分と相手のうち、どちらを主体に立てるべきかが決まってきません。

 そこで本章ではこの問題について考えてみることにしましょう。

 この問題の出発点は、第一部第二章(堕落論)で説明したように、神がアダムを自らの子女として宇宙全体の中心に立てられ、それまで天使界の中心の位置にいたルーシェルをアダムの僕(しもべ)として、アダムに仕えさせようとしたことに不満を持ったルーシェルが反逆したという歴史的事実にあります。

 それまで「ルーシェルは天使世界の愛の基(もとい)となり、神の愛を独占するかのような位置にいた…しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛された」。

 「ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになった」。そこでルーシェルは、それまで「自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになった」(『原理講論』108〜109頁)。

 その結果、ルーシェルとエバとの間に「不倫なる霊的性関係」が結ばれ、その後、エバは「自分が本来対すべき……相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになった」。

 「ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するように」なり、「ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至った」(講論110〜111頁)。

 すなわち、エバとルーシェルとでは、エバが主体でルーシェルはその対象。アダムとエバとでは、アダムが主体でエバはその対象というのが、神が定められた“本来の位置”であったのに、最初はルーシェルが、次にはエバがその関係を逆転させて、「性関係」という人生において最も重要な営みを遂行してしまったことから、それ以後の歴史の歯車が根本からすべて狂ってしまったというのです。ここから第一部第二章で説明したように、四項目に整理することができる「堕落性本性」が生じてきました。

堕落性本性の根本
 ルーシェルが堕落するようになった根本動機は、「神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙(じゅうりん)したところにあった」(講論123頁)。

 「神と同じ立場に立つ」ということは、神主義の根本精神です。

 神主義のすべての配慮の土台となる神の心情(愛)と創造目的という観点から、人間の始祖―アダムとエバを創造された神の動機を考えれば、第四章で述べたように、神は全知全能であられるが、お独りではご自分と同質の知情意を備えた存在(人間)と交わる喜びを味わうことができません。それゆえ、ご自身とすべての点で似た存在を、それから子孫が次々に生まれるように男と女の対として、またご自身の最も身近な「わが子」という立場に立てて創造しようとされたのだと分かってきます。

 また、その「わが子」をいきなり創造したのでは、「わが子」が生き続けることができないし、またその「わが子」にも愛する対象がなければさびしい。そこで「わが子」の創造の前に「わが子」を生かし、喜ばせる万物を創造された。さらにその万物を創造するに当たっても神お独りではさびしい。そこで、その万物の創造のさらに前に、神をなぐさめ、賛美し、使いの役割を務める者として、霊的な天使たちをまず初めに創造された(講論106〜107頁参照)という統一原理の解説が理解できるようになります。

 ルーシェルはこういう神の心情と事情を知っていながら、神と同じ立場に立って、神を喜ばせようとはせず、人間が創造される前に、天使たちの中の最高の位置にいて、神の愛を独占していたその状態を保ち続けたいとばかり考えて、エバを誘惑し、霊的な性関係を結ぶことによって、神の人間創造の目的を根本から破壊してしまいました。

 さらに、エバも、神が定めた自分の本来の相対は天使ではなくアダムであった、という知恵をルーシェルから受けたということはよいとして、自分とルーシェルとの性関係を神から解消していただこうとはせず、「善悪を知る木の実」を取って食べてはならないという神の厳命があったにもかかわらず、アダムと一体となれば晴れて神の前に立つことができると浅はかにも考えて、アダムを誘惑して肉的な性関係を結んでしまったこと。これも神の立場を配慮しての行為ではなく、自分の利害と感情だけを配慮した利己的な行いだといわなければなりません。

 このようにして、ルーシェルとエバとの霊的堕落、エバとアダムとの肉的堕落によって継承された、神に反逆したルーシェルとエバとの血縁関係によって生じた、堕落性を誘発する根本的な性稟(せいひん)が「堕落性本性」(講論122頁)です。これは“神と同じ立場に立てなかった”ことから生じたものでした。ではどうしたらこれを元の健全な状態に戻すことができるでしょうか。

 「このように、堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が、再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足るある条件を立てなければならない」(講論274頁)。例えば、「失った名誉、地位、健康などを原状(元の状態)どおりに回復させるためには、必ずそこに、その必要を埋める努力とか財力などの条件を立てなければならない。また、互いに愛しあっていた二人の人間が、何かのはずみで憎みあうようになったとすれば、このような状態から再び、互いに愛しあっていた元の状態に復帰するためには、彼らは必ず、お互いに謝罪しあうなどのある条件を立てなければならない」(講論273〜274頁)。

 「堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを『蕩減(とうげん)復帰』といい、蕩減復帰のために立てる条件のことを『蕩減条件』という……。そして、このように蕩減条件を立て、創造本然の人間に復帰していく摂理のことを『蕩減復帰摂理』という」(講論274頁)。

 この「蕩減復帰摂理」の原理について述べたのが第一部第三章です。

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 次回は、「メシヤのための基台」をお届けします