2024.05.10 22:00
【テキスト版】
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第187回 日本でのキリシタン迫害はどのようにして終わったのですか?
ナビゲーター:阿部美樹
皆さん、こんにちは!
今回は、「日本でのキリシタン迫害はどのようにして終わったのですか?」という質問に対してお答えします。
日本のキリシタン迫害が終わったのは、政府が「信教の自由」に目覚めることで終わったのではありません。そのきっかけは、諸外国からの非難、外圧によるものでした。
キリシタン迫害において、幕末から明治初期にかけて「浦上四番崩れ」と呼ばれる大迫害が起こりました。
徳川幕府が鎖国を解いた7年後の1865年、長崎に大浦天主堂が建ちましたが、その時、長く潜伏してきた多くのキリシタンたちが名乗りを上げました。
これは「世界宗教史の奇跡」といわれました。しかしその2年後の1867年7月、幕府の捕り手が浦上に乗り込み、キリシタンを拉致したのです。
信者は拷問に屈して一度は棄教を表明しますが、すぐに信仰を持ち直しました。
1868年、再度、信者は役所に呼び出され、住み慣れた家から別の場所に移され、見知らぬ土地で監禁され棄教を強要されたのです。
彼らキリシタンは犬の扱いを受けて、1匹、2匹と数えられました。
こうして、キリシタン迫害がなされている最中である1871年11月、岩倉具視(ともみ)を特命全権大使とする岩倉使節団が横浜港をたち、1年10カ月にわたって、条約改正問題の交渉のため、米国を経て欧州諸国を訪問しました。
ところがその際、キリシタンを迫害し、信教の自由を認めない野蛮な国とは条約を結べないとの激しい非難を受けたのです。
この岩倉使節団の経緯を、永井隆氏は著書『乙女峠』(中央出版社)で、次のように述べています。
「どこの国に行っても、日本政府が人民に信仰の自由を与えていないのは野蛮国だ、という非難の世論がごうごうと岩倉大使一行を攻撃し、ことにベルギーのブリュッセルでは、一行の乗った馬車が市中を通るとき、市民がおしよせてきて口々に非難し、人民に信仰の自由をゆるし、流されている浦上のキリシタンを牢(ろう)から出せ、と叫んでやみません。
……ついに使節から東京に電報が打たれました。
『吾人(ごじん)は行く所として、切支丹(キリシタン)追放者と信教自由とのために外国人民の強訴(ごうそ)に接する、この際、前者はすみやかにこれを解放し、後者については幾分の自由寛大の意向を表明しなくては、とうてい外国臣民の友誼(ゆうぎ)的譲与を期待することはできない。』
この電報は政府を驚かしました。
……小さいと思った宗教問題が、平等条約を結ぶのにいちばん大きいじゃまになっていたのをはじめて知ったのでした」(72~73ページ)
このような諸外国からの非難と外圧を受けた日本政府は、ついに1873年2月21日、切支丹禁令の高札(法令)を取り去り、3月14日に、各地に流されていた浦上の信者を故郷に帰します。
こうして信教の自由を与えた日本は、やっと野蛮国の汚名を返上し、諸外国と平等な条約を結ぶことができたのです。
現在、家庭連合信者に対する拉致監禁を見て見ぬふりをして解散命令請求を出す日本政府に、多くの国際人権団体が非難声明を出し、著名な政治家、学者、宗教家が異を唱えています。
それらの声に耳を傾けるべきではないでしょうか。