2024.04.17 17:00
スマホで立ち読み Vol.31
『文鮮明先生の日本語による御言集 1』13
日本歴史編纂委員会/編
スマホで立ち読み第31弾、『文鮮明先生の日本語による御言集 1』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
真のお父様が語られた日本語がそのまま残されていて、当時の雰囲気を味わうことができます。日本に対する真の父母様の深い愛を感じる一冊です。
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一、「神の目的と我々の目的」
1965年1月28日
本部教会(東京都渋谷区南平台)
統一食口(シック)に願うこと
統一教会の君たちは数が少なければ少ないほど、一億国民に対しての反比例した苦痛の道を行くことになる。十字架をあなたたちの肩に負わせざるを得ない、そういう状況になる。
そういう立場になるんだから、今日皆様に会いまして、先生として皆様の御苦労を誉(ほ)め称(たた)え、そうして涙ながら、「これでいい」と誉めたいんだけれども、まだまだ駄目である。これが先生として困ったところである。戦って疲れている皆さんの前に、また行かなければならない我々としては世界的なそのサタンの城壁がある。
これを覆(くつがえ)すには、我々の血と我々の肉で覆さなければならない。君たちに対して、「十字架を負え!」。「死の所へ行け!」。「前に塞(ふさ)がっておる城壁にぶち当たれ!」。神はそういう勇士を願っている。そういう兄弟を。
そういう決意でもって、打たれても打たれても変わらない。そこで残れ。死んじゃだめだ。
もしその心情を授けられる人がいなければ、石碑(せきひ)、あるいはこの地に遺言(ゆいごん)を残して我は行く。アベルの血が天に訴えて、我々の血が日本の地におきまして訴えるところが一カ所でもあれば、ここにおいては天から見れば瑞光(ずいこう)が来たのである。
その光は天に向かった光でありますけれども、それは角度を変えて、それは垂直に光ったその光が、あるいは40度、あるいは30度、あるいは10度、あるいは世界に更に下に向かって、その光を地上に落とそうとする立場に立っている神であるということを、よく君たちは知らなければなりません。
我々は行きましょう。我々はわからなければならない。6千年の敵である、我々の人類の敵であるこのサタンを、この力を込めたこの手でもって、首を締(し)め、「おいサタン、死ね!」、そういう条件がない。
我々の今まで闘ってきた過去の生活、神に対しての忠孝、自分たちが残してきた功績を、万物あるいはすべてのものが、それを公認している。
その公認の価値をいかにサタンでも讒訴(ざんそ)することができない立場に立って戦うという一人がいれば、神は日本にそういう人が一人いれば、日本を捨ててもその人を選ぶ。世界にそういう人が一人でもおれば、その一人を神は選ぶ。
世界を捨ててもその一人が必要である。日本を通してアメリカまで先生は行くんですが、この日本の地に足を踏み出す時、心から先生は祈っていた。
「神の心情にかなった、真をもってこの先生を迎える人がいれば、その迎える心情を神は記憶してください」
しかしまだまだ行かなければならない十字架の道を残している。この残しておる十字架の渦中におきまして、我を本当に迎えて行くその食口たちの迎える心は、まだ足らない。
この地上に神御自身が希望を持って造ろうとした理想天国、地上天国を建設せんがために神の御旨が成るまで行くには、峠もありましょう。茨(いばら)の道もありましょう。あるいは断崖もありましょう。
あるいは自分自体を一つの砲弾として打ち込む。砲弾は一度飛んで敵中に落ちれば破壊して、その存在を二度と得られない。
しかし、我が行った後に誰かその心情を引き継いで、神の勝利の世界を造ってくれるような人を造って行くその人があれば、その人は人生生涯におきまして勝利者だということを、我々は考えなければなりません。
我々は、あるいは別れるその度ごとに、君は神の目的にかなう、神の目的のその真っ只中に立っているか。
自分の生活、自分自身を分解すれば、そこには神の願いしかありません。神と結んだ関係しかありません。因縁しかありません。神に対する最初の希望と神に対しての事情と心情しかありません。神を中心とした独立性と融合性と統一性しかありません。
そういう人間になれば、この人は世界をリードするだろう。
ここに立っている先生は何を持っているか。あなたたちに対して語る何も持っていない。ただ持っているというのは不足だ、不足である。
深い心情に接すれば接するほど、頭を下げて神の前に立つことができない。引き受けなければならない神の御苦労に対して、責任を果たすには、いかにすべきかという心情、それが必要である。
神の力、神の御恩におきまして求められた一人一人の兄弟たちは、神の目的のために生かしめられた兄弟である。これは天宙の天運のすべてにつながって結ばれた因縁である。関係である。希望の実体である。
その価値を認め、それは貴いものであるということを考える人があれば、その人は神に近い人である。
我個人の感情でもって、「誰はどうである。誰とは和合することができない何ものかがある。あの兄弟の性質はこうである。だから、我とは関係することができない」。そういうことを言うよりも、今まで一億の中に、小数のこの群れが、ともかくその中の一人として神を知った。いかに不足であるとしても、神を父とする同じ原理の言葉を真理として信じ、この場所で一挙手一投足を共に行動する、そのこと自体が貴い。その因縁が貴い、その関係が貴い、その願いの心が貴い。
あるいはその人に対してどうにもこうにも許すことができないということになれば、もしもそういう一人一人の関係におきまして、そういうその欠点があり、そういう不足なところがあるとしても、その人が自分よりも大なる天の願いに対して涙を流せば、これは許さなければならない。
一個人の罪に対しては許せない心があるけれども、その兄弟の中に自分より以上の心情を持っていることを見い出せば、条件なしに許さなければなりません。そういう生活態度が必要である。
だから、我々の因縁が貴いのである。我々の関係が貴いのである。我々の願いが貴いのであります。それ自体が貴いところだ。
その因縁は個人よりも家庭に対しての思い、家庭よりもその氏族、あるいは民族、あるいは範囲が広ければ広いほどその価値は比例する。
だから大なる希望、大なる関係、大なる目的観をもって生活の態度を取って行くならば、その人に対しては我々は無条件に仕えて行く。そういう人たちは、いかなる罪悪の世界の裁きの時が来ても問題ではない。神自体がそういう生活をしている。
我々自身は罪の子である。しかし我々を呼んで、召して立たした以上は、その罪よりもより大きい目的観念を持って闘って行く。だから神は許してくれる。そういう神の今までの摂理路程におきましての生活態度を、日本におられる食口たちは知らなければならない。
今後先生が、ここに幾日かとまるかもしれませんが、日本を通って行った後におきまして私が願うのは、君たちが一体となることである。
貴い因縁によってこの日本の地に生まれた。先祖の善なる血統を通して、この地上に生まれさせ、我々個人が信ずるところに、同行するところに、信用するところに神の願いが果たされていくということを考えれば、口を開けて叫ばなければならない。
もっともっと大きい因縁、関係そうして願いの過程におきまして、目的観に接する人々が貴く歩きながら君たちが、日本の地の開拓の先頭に立って、気落ちをしない。あるいは疲れを知らない。困難を困難と思わない。
世界を救うそういう歴史的な天宙的なその革命の一員として立った者にとって、こういう十字架は問題じゃない。こういうつらさはあるべきである。それは真理道である。またそれは、自分が行かなければならない運命の道である。
そういう考えを持って行くなら、今後の日本の発展は、飛躍的な発展をすると思っております。
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次回は、「天宙復帰」をお届けします。