2024.03.31 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(151)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十一、神を慰める者となりましょう
神と共に苦しみを越える
そういうことを考えてみると、6000年の間、たくさんの人が神の身代わりになって、復帰摂理の責任を果たしてきたと思うのです。ところが、その人たちがその責任を果たし得ずして、摂理がどんどん延長してきました。このすべての復帰摂理を成就しなければいけない使命を受けたお方は、どんな道を行かなければならないのでしょうか。それは並大抵のことではありません。
そういう点からして、さっきの話にもあったように、つらいことがあっても、その時には、このつらいことを自分のものとして考えてはいけません。私たちは、つらいことがあると、「ああ、つらい」と考えてしまいます。
つらいことを、どのようにして感謝していくのですか。「つらいのに、どうして感謝の心が出てくるのですか。無理です」。そういうことでは、世の中にはもう対策はありません。「つらい時とか、心が苦しい時、1、2、3と数えなさい」。そういうことを言ったり、いろいろしたりしています。しかし、それは非常に無理な考え方であり、やろうとしても難しいのです。私たちは、神の心情がどれくらいつらいか、どれくらい苦しいかということが分かりません。ですから神は、私たちにそのことを通じて知らせてくれるのです。「つらいだろう、私はこのようにつらいのだよ」ということなのです。誰のため? 「人間のために、私はこんなにつらいのだ、苦しいのだ」ということを知らせてくださるのです。しかし、私たちは、「この苦しみから何とかして逃れることができないか」ということばかり考えます。しかし、逃げ道がないのです。
私たちの心の中に、「神は私のために、こんなにつらいのですか」という思いが神に対して出てきた時は、「このようにつらいけれども、神は、そして先生は、私を罰しない、何も私に言わない」と、こう考えるのです。こういう時に神に対する感謝があるのです。まず慰められて「自分」が解決できないと、感謝の念が出てこないのです。
ですから慰めようとしても、自分一人だけつらい、寂しい、苦しいとするならば、これでは道がないのです。逃れる道がないのです。ところが、私が嫌なのは神の心でもあるとするならば、慰めになるというのです。というのは、相対基準ができて授受作用ができるからです。一人だとすると、「私はつらい、つらい」という世界に押し込められるのです。一人だけでいるので、寂しいと思うのです。一人だけでいるということは、非原理的であるというのです。ですから、早く原理に入れということなのです。
原理に帰るためには相対者がいなければならず、授受作用をする、そういう相対者がいなければなりません。ですから、悪いことをした人は苦しいのです。しかも、非原理的です。けれども、そういう悪い人の仲間が見つかれば、そこで慰められるというのです。私たちは天のお父様の子であるとするならば、天のお父様は善なるお父様ですから、善の授受作用が起こり、慰める授受作用が起こるのです。
その次は、私よりも高い基準の主体者がいらっしゃることを知って、そのお方は私よりつらいことがあっても、私のために、「つらい」とは言わないで、かえって私を慰めようとしている人であると考えついた時に、感謝の念がわき起こるのです。
そうした時に、感謝できた人には「つらい」という言葉がなくなるのです、自然に。もうその時には、ちょっと苦しんでみよう、味わってみようとしても、既に苦しみはないというのです。なぜならば、一人であると思うから苦しいのです。ところが一人ではなく二人になると、その苦しみを再び求めようとしても、求められないのです。そこで感謝が出るのです。
先生がこの神の道を切り開かれた時に、いつも神のことを考えて祈られたといいます。もっとつらい神様がいらっしゃったのです。先生の苦しい立場を眺め、苦しい立場に追い込まなければならないけれども、それを見捨てなければならない神の御心情はもっとつらかったでしょう、ということを先生は考えられたのです。
先生が牢屋の中に捕らわれた時にも、「私が苦しむのを見る神の御心情はいかばかり苦しいことだろうか。その苦しみは、私よりも、もっと苦しいでしょう。だから私よりもつらい苦しみを見つめた時に、私の苦しみは、その苦しみの中に包含されてしまう」と、そう思われたのです。ですから先生は、いつも神と一緒に苦しみ、一緒に泣かれるのです。
ところが私たちは、神と共にそういうことをしないから、泣いても、自分のために泣くということになります。そして自分が泣いたばかりでなく、神をもっと泣かせることになるのです。
しかし先生はいつも、いろいろな苦しいことがあっても、恨みの境地をお歩きになっても、ののしることができなかったというのは、恨みの中にいらっしゃる神の心情を御存じだからです。
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次回は、「本人以上に心配して伝道する」をお届けします。