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中山みき

(光言社『中和新聞』vol.502[1998年12月15日号]「日本17宗教人の横顔」より)

 『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。

人民救済のため天理教を立教
18回も留置、75日断食など波乱の生涯

 中山みきは、179862日(寛政10年)、大和国(奈良県)に生まれた。父の前川半七は、名字帯刀を許された庄屋で、母は、裁縫の上手な、しとやかな女性だった。みきは、人中に出るのはあまり好きではなく、家の中で静かに細工物や裁縫をするのを好み、また体が丈夫でなかったためか、念仏が好きだった。8歳から10歳まで寺子屋に通い、読み書きを習った。「尼になりたい」というのが、みきの口ぐせだったという。

▲中山みき(ウィキペディアより)

 1810年、12歳の時、いとこの中山善兵衛のもとへ嫁いだ。中山家は、村でも一、二の大地主で、ほかにワタを扱ったり、質屋をしていた。新郎の善兵衛は、この時22歳、中山家には舅、姑がいた。みきは、そういう家の年若い嫁として、炊事、洗濯、針仕事、機織りと忙しく働き、田植え、草取り、稲刈りなどの農業にもいそしんだ。有能で、近所の受けもよく、すっかり安心した姑は、みきが15歳の時、家事の一切を任せた。

 しかし、みきはこうした生活に満足していたのではなかった。自分を生かすことのできない生活は、彼女にとって不満で、その不満を信心によって紛らわせた。1820年に舅が、28年には姑が亡くなり、前後して、みきは一男五女をもうけた。

 当時、人々の暮らしは貧しく、家や土地を失う者も多く、深刻な飢饉にも襲われた。新しい時代は来ないだろうか——。だれもがそう思っていた。みき自身も、次女、四女を相次いで亡くした。世の中の不幸を取り除くことはできないものかと、信心深いみきは思わないではいられなかった。さらに長男が16歳の時、急に左足が動かなくなった。みきも五女の出産後、体力が回復せずノイローゼ気味となった。そこで、山伏の市兵衛を呼び、毎月のようにお祈りをしてもらった。

 1838年、市兵衛が中山家でお祈りをしている時のこと、巫女(みこ)がたまたま留守だったので、みきが代わって御幣を持ち、市兵衛を助けていた。その最中、突然みきが神がかりの状態になった。「われは天の神である。この屋敷に因縁があって、このたび世界の人々を救うために、天から下ってきた。みきを神のやしろにもらい受けたい」。みきは、重々しい声で突然こう言い放った。

 夫の善兵衛や親戚の人たちは、なんとかしてみきの神がかりを解こうとしたがムダだった。みきは全く受けつけず、3日の間、御幣を手にしたまま、一度の食事も取らず静かに座り続けた。このままでは命が危ないと思った善兵衛は、「それではみきを差し上げます」と答えた。すると、みきの神がかりの状態が解けた。

 この後中山みきは、救済者としての道を歩むことになる。この日、1026日は、天理教では「立教の日」とされている。

 神がかり以後のみきは、際限なく施しを始めた。夫の善兵衛が亡くなると、屋敷、田畑、山林も売り払い、みきら親子は小屋を建てて住んだ。「物を施して執着をなくすと心に明るさが生まれる。心に明るさが生まれると、自然に陽気ぐらしへの道が開ける」とみきは言うのだった。親戚や知り合いは近寄らなくなったが、それに代わって近所に住む貧しい人々が、みきのもとにやってきた。「悪(あ)しきをはらいて、助けたまえ、てんりんおうのみこと」という教えは急速に広がっていった。「てんりんおう」というのは、仏教の「天輪王」から来ていて、これが後に「天理王」となる。

 教えがどんどん広まるとともに、みきの思想も発展していった。独特の神話を作り、「みかぐらうた」をまとめた。明治維新を迎えた時、みきは70歳。新しい時代への期待に心をはずませ、和歌の形で「おふでさき」という教えを書き始めた。これは1882年まで続き、全部で1171首に及ぶ。みきの信仰はますます進み、1869年には38日間にわたり断食、72年には75日の長期にわたって断食をした。

 やがてみきの教えは、明治政府の支持する神道に沿わないものとして、迫害にさらされていく。1875年に初めて入獄してから、87年に89歳の生涯を閉じるまで、実に18回も警察に留め置かれた。晩年は受難の連続だったが、天理教の力は全国に伸びていった。

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 次回は、「出口王仁三郎」をお届けします。