日蓮

(光言社『中和新聞』vol.501[1998年12月1日号]「日本17宗教人の横顔」より)

 『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。

「われ日本国の眼目とならん」
迫害に屈せず法華経広める

 日蓮は、承久の乱の翌年、1222年、安房(あわ)国(千葉県)小湊(こみなと)で、漁師の子として生まれた。この年は、法然(浄土宗を起こした)が亡くなって10年たっており、親鸞(浄土真宗)は50歳、道元(曹洞宗)は23歳だった。

▲日蓮(ウィキペディアより)

 日蓮は小さい時から賢く、勇気があって周りの者を驚かせていた。12歳の時父親に連れられて清澄山に入り、道善房和尚のもとで修行に励んだ。16歳で出家、正しい教えを究めるために、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ=大空のように大きな知恵と福を表す仏のこと)をおまつりしてある清澄山中の菩薩堂で21日間の断食祈願をしたところ、菩薩が知恵の宝珠を授けてくれた。

 翌年もっと深く仏道を求めるために鎌倉に出た。寺々を回って各宗派の教えを学ぶかたわら、鶴ケ岡八幡宮の経堂に入って、一切経(いっさいきょう=仏の教えをすべてまとめた膨大なお経)を読破した。鎌倉での4年間の修行を終えた日蓮は、1242年、21歳の時、仏教の最高峰・比叡山に向かって再び厳しい修行の旅に出発した。延暦寺の高僧・俊範上人の教えを受け、さらには京の寺だけでなく、南都(奈良)七大寺、高野山、四天王寺などを回り、各宗の教えを学んだ。そして、ついに、たくさんある経の中から「法華経(妙法蓮華経)こそ本当の教えである」という結論にたどりついた。

 1253年、日蓮は故郷の清澄山へ戻った。そして大衆の前で、「南無妙法蓮華経を唱え、心にこれを奉ずるならば、必ず成仏する。他の教えを捨てて法華経を信ぜよ」と力強く訴えた。当然、他の宗派の僧侶たちは猛反発したが、日蓮は12年間求めてきた仏法の道を大衆に語れたことに大きな満足を覚えた。

 翌年、鎌倉に渡った日蓮は、「南無妙法蓮華経」と書いた旗を立てて、道行く人に向かって「他宗を信じれば災いを招く。幕府も法華経を信ずべし」と辻説法を始めた。それから4年、さまざまな迫害にも負けず、自分の信じる仏の教えを説き続ける中で、次第に信者も増えていった。

 このままでは、外国から侵略を受け国内では内乱が起こると危惧(きぐ)した日蓮は1260年、前の執権・北条時頼にあてて幕府をいさめる論文「立正安国論」を書き上げた。怒った幕府は、1261年、日蓮を伊豆へ流したが、危ういところを漁師に助けられた。

 伊豆の庵で「四恩鈔」(仏法を習う者は、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩に報いるべしという教え)を書いた。その後日蓮は流罪を許され鎌倉に帰ったが、日蓮を憎む地頭に襲われ左腕を折り、頭に刀傷を受けた。

 1268年、蒙古襲来が伝えられ、幕府や朝廷は国の一大事と驚いた。日蓮は、再び「立正安国論」を添えて、国難迫るとの警告をすべく、対面を申し出た。

 また、公の席で他宗の代表と議論をたたかわせるために、時宗をはじめとする幕府の主だった人や、建長寺、 極楽寺など鎌倉の寺々にあてて11通の手紙を送った。それは、信じる教えのために命をかけた挑戦状だった。

 混乱を恐れた朝廷は、他宗を激しく非難する日蓮に、佐渡への流刑を命じた。これより先、鎌倉の竜ノ口で処刑されることになったが、幕府の役人が日蓮の首を斬ろうと刀を振りおろそうとしたところ、突然雷が響きわたり、役人は持っていた刀を落としてしまった。役人は恐ろしくなって日蓮を斬ることができなくなったという。そこで、幕府はやむなく佐渡島に流した。

 日蓮は粗末な茅(かや)ぶきの小屋で苦行を続けた。佐渡にいる2年間に「開目鈔」という本を書き、「われ日本国の眼目とならん。われ日本国の大船とならん」という有名な言葉を残している。2年半後の1274年、鎌倉に呼び戻された日蓮は、執権の時宗と対面、「蒙古の襲来を防ぐには、法華経を信じる以外にない」と進言したが、日蓮の意見は今度も受け入れられなかった。

 やむなく甲斐の国の身延山に入ったが、その年の10月、予言どおり蒙古の大軍が攻めてきた。身延山で日蓮は多くの弟子を育て、各地から集まった信者に仏の教えを説き、遠くの信者には手紙を送った。しかし、身延の厳しい風と深い雪は次第に日蓮の体を侵していった。1282年、61歳の時、師の衰えを知った弟子たちの勧めで、養生のため常陸の湯に向かったが、その旅の途中、武蔵国(東京都)の信者池上宗仲の家(現・池上本門寺)で亡くなった。

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 次回は、「中山みき」をお届けします。