2024.03.14 22:00
法然・親鸞・栄西・道元
『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。
念仏や座禅を奨励
易しい方法で救いの道示す
平安時代の末法思想は、鎌倉時代にも引き続き人々に影響を与えていた。源平の合戦と政治の混乱、うち続く飢饉などで、この世に望みを持てなくなった人々は、世のはかなさを憂い、救いを宗教に求めた。特に武士は、人を殺すという罪の意識におののき、心のよりどころを求めていた。このような時に、念仏を唱えることを勧めた法然や親鸞、踊り念仏を広めた一遍、座禅による悟りを説いた道元や栄西、法華経に真理を見いだした日蓮などが現れ、やさしい方法で救いや悟りの道を示した。
法然は平安時代末期(1133年)美作(みまさか)国(岡山県)に生まれた。幼い時に父母を亡くし、12歳で出家、比叡山で25年間修行して知恵第一といわれたが、出世主義に堕落した比叡山を下りた。そして、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われるという教えを広めた。これが浄土宗で、一般の人だけでなく、貴族や武士にも広まっていった。
親鸞は、法然より40歳年下で、29歳の時法然の弟子になっている。親鸞は京(京都市伏見区)に近い日野に生まれた。やはり幼い時に父母を亡くし、9歳で出家、延暦寺にのぼり、20年間修行を続けた。山を下りて、聖徳太子の化身といわれる京の六角堂(京都市中京区にある頂法寺)にこもった。95日目の朝、「死後の世にみちびいてくれる上人に会え」という太子のお告げにより、親鸞は念仏の教えを説く法然を訪ねた。
そのころ、法然の念仏の教えは多くの人の心をとらえ、朝廷の中にも広まっていた。しかし中には、「ただ、南無阿弥陀仏と唱えればよい。ひたすら阿弥陀仏に救いを求めればよい」という教えを誤解する人間も出てきて、悪いことをしても念仏を唱えれば帳消しになると言って悪事を重ねたり、古い仏教教団は念仏の教えを禁止するよう朝廷に訴えた。
1207年、朝廷はついに折れて、ときの後鳥羽上皇は、法然を讃岐(香川県)へ、親鸞を越後に島流しにした。しかし、法然も親鸞も、流罪地で念仏の教えを広めようと努めた。4年後、法然は許されて京に戻ったが、翌年80歳で亡くなった。
親鸞は5年後に許されたが、都へは戻らなかった。しばらく越後で布教活動をし、2年後の1214年、妻や子を連れて(仏教の教えでは、僧は妻帯しないとされていたが、流罪前に許しを得て結婚していた)常陸国(茨城県)を目指して旅立った。
やがて常陸国稲田に住みついた親鸞は熱心に布教活動を繰り広げた。親鸞は、自分が悪人だと深く悟れば救われると説き、独自の教えを解説した「教行信証」を著した。京に帰ってからも、いろいろな書物を著し、1262年に亡くなった。親鸞の教えは、浄土宗をさらに進めたもので、浄土真宗、または真宗、一向宗とも呼ばれている。
栄西は1141年、美作国に生まれ、初め比叡山で学んでいたが、二度宋に渡り臨済宗を学んで帰国した。座禅により自分の力で悟りを開こうとする教えで、幕府の保護を受けて、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建て、東大寺の再建にも力を尽くした。1215年に死去。
道元は1200年、京都に生まれ、やはり幼い時に父母に死に別れ、13歳で出家。比叡山で学んだが、わずか2年で山を下りてしまった。栄西禅師を訪ねた道元は宋の禅宗をきわめるために、1223年、師の明全と共に大陸に渡った。宋に着いた道元は明全と別れ、真の禅宗の姿を求めて各地を回った。天童山では宋の高僧、如浄和尚に出会って厳しい修行をし、さらにたくさんの書物を読んだ。真の禅宗とは、名利を考えず、ひたすら座禅に打ち込むことだと悟り、1227年、28歳の時に帰国。
宋から帰ってきた道元は、宋で死んだ明全の墓を建仁寺に建てた。京で禅宗の布教を始めたが、延暦寺の圧迫や、名誉・利益を求める僧に失望し、真の禅宗を広めるために、京を離れた。京の近くの深草に興聖寺を建て、禅宗の布教にあたった。その後、道元の禅宗は広まり、公家をはじめ、六波羅探題に仕える幕府の武士の中にも信者が増えた。しかし、その勢いに驚いた延暦寺の僧によって興聖寺は壊されてしまった。
道元は、六波羅の武士、波多野義重のすすめで、越前国に移り、大仏寺(後の永平寺、大佛寺とも)を建てた。禅の教えやあり方について細かく論じた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を書き終えた後、病気になり、京に戻った1253年に亡くなった。
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次回は、「日蓮」をお届けします。