2024.03.17 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(149)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十一、神を慰める者となりましょう
より愛ある人に主管される
もしここに、持ち主よりその存在を愛して価値あるものとして大事にしてくれる人がいるとしたら、すべての存在の主人は、その存在を自分のものとしたいと思わず、愛してくれる人のものにしたいと思うのです。自分自身をも、あなたのものとしてあげたいというのです。そうすることによって喜びが生じるというのです。そういう方が誰かというと、神であるというのです。
神が、神御自身のためより、私のためになってくれるということを知るとき、「あなたのみ意(こころ)のままにしてください」と言えるのです。
ですから、先生が常に私たちに言ってくださるのは、そのことなのです。人をアメリカに送る時、あるいは宣教師を送る時にも、「あなたは、その国の人ではないけれども、アメリカの人となって、アメリカの人がアメリカを愛する以上の愛でもってアメリカを愛するとするならば、アメリカは神の愛するあなたの国となることでしょう」と言われるのです。ですから、先生が日本やアメリカに出発する時にも、そういう心持ちで、そういう心情で、今もなお働いていらっしゃるのです。
先生は、アメリカに行かれると、アメリカで一番苦労し、アメリカのために非常に尽くした人はどういう人か、それをまず探し求めるのです。そこで、その国に対してその人が尽くした以上の愛と心情をもって力を尽くしていくならば、必ずアメリカは神に帰るというのです。
誰でも、すべてを自分のものにしたい、何もかも自分の心のままにしたいという心があります。それは自分中心の思いから出るのではないのです。悪い心ではないのです。もともとそういう心を神が与えたのです。人を通じて神の愛を受けた、ということがありますか。直接受けた愛です。私たちは直接の神の愛に触れたいのです。ですから神の愛を、私を通じてすべてに与えたいと考えているのです。その考えが悪いのではないのです。神から与えられた考えです。
そうなるためには、どうしなければならないかということが問題です。そのことを考えないで、私を通じてすべてに与えたいということだけを考えてしまうのです。ですから結局、願うようにはならないのです。私は、こうなりたい、ああなりたいと言いながら、どうしてそうならないのですか。
そのためには、まず、神のためになることです。そして神のためになることによって、私を通じてすべてに与えるのです。私たちにまずもって犠牲、あるいは奉仕を強調するのは、そういう意味です。
先生が私たちに見せてくださるのは、今話したように、私のものであるけれども、私のもの以上に非常に大切に愛してほしいと、そういうことなのです。
ですから先生が韓国に帰られた時も、40日、50日もの間、韓国に滞在されましたけれども、その間、朝早くから夜遅くまで、聞く人が「もうこのくらいでちょっと休ませてもらいたいなあ」と思うほど話されました。それを先生は御存じです。それでも周りに座っている人の中で、終わりまで元気な人がいるのです。そして、その人がこれで帰っていいというまで、先生は帰られなかったということです。その一例として、こういう話をしてくださいました。
---
次回は、「尽くす者が主人となる」をお届けします。