2024.03.10 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(148)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
十一、神を慰める者となりましょう
愛する人が主人に
歌のことを話しましたが、私たち自身も同じなのです。私たちは先生を非常に尊敬し、愛し、お慕い申し上げています。自分の実の親の言葉と、先生のみ言(ことば)が対立する場合、私はどちらの言葉についていくかということがあります。それを自分に当てはめて考えてみると、私は自分の実の親よりも先生の言葉についていくと考えます。なぜそうなったのでしょうか。それは、実の親が愛するより、もっと高い次元で先生は私を愛してくださるからです。
愛は、すべての生命の根源です。ですから、どういう存在であっても、サタンであっても、一番大事なものは愛です。それは生命の根源です。ですから、神がサタン圏の人を神の圏内に移行させるためには、話だけでは駄目なのです。サタンがサタン圏内にいる人を愛する以上に神が愛すると、サタン圏内にいた人はサタン圏の人ではなくなります。その人をサタンが愛する以上に愛するとするならば、愛はすべての生命の根源ですから、その愛にすべてのものはついていくというのです。ですから我々がサタンの圏内から神の圏内に行くのは、より高い愛を見つけたからです。
その歌も、その人が神の心情を愛して歌を作り、歌って神を賛美し、慕うのです。ですから先生は、その人が神を愛する以上の愛をもって、その歌を愛して歌われるのです。そうするとその歌は、その人が作った歌ですけれども、その歌の主人は誰になりますか。作った人以上にその歌を愛した人が、その歌の主人になるというのです。
我々の実の親が我々を愛する以上の愛で私たちを愛する人がいるとするならば、我々は誰のものになりますか。それは、私自身の親、実の親ではないのですけれども、私を実の親以上に愛してくれる人のものになるのです。そういうことなので、人類の誰よりも神を愛する人がいるとするならば、その人こそ神に愛される人になるというのです。中心になれるのです。
では教会の主人は、誰がなるのでしょうか。本来ならば、誰よりも教会を愛する人がいるとするならば、その人が教会の主人になるというのです。
ここに宝物があって、私がこの宝物をもっているとしましょう。するとこの宝物を、私は愛します。貴重なので、誰にも言わないで、見ることのできない奥深い所にこれを保管して、私だけが見たいと思うのです。私はこういう考えですが、この私の宝物を私以上に貴重にし、大切にする人がいるとするならば、この宝物はどこに行くでしょうか。私以上に大事にしてくれる人がいて、それを私が知ったとき、きっと私は、この宝物をその人にあげなければ気が済まないようになるでしょう。
そのことが理解できますか。あなた方が大事にしている万年筆があるとしましょう。それは何かのお祝いの贈り物として、誰かからもらったとします。ですから、それを大切にするのです。ところが傍らにいる人が、私が大事にする以上に、この万年筆を大切にするとします。この万年筆を一日使わなければ、あるいは触れなくては気が済まない、といって大切にしてくれるのです。それが一日だけではなく、一年も何年もかけて大切にしてくれるとするならば、その人にその万年筆をあげざるを得ないというのです。
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次回は、「より愛ある人に主管される」をお届けします。