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賀川豊彦

(光言社『中和新聞』vol.498[1998年10月15日号]「日本17宗教人の横顔」より)

 『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。

「神と貧しい人たちに奉仕しよう」
貧民街に入って伝道

 賀川豊彦は1888年(明治21年)、神戸で生まれたが、4歳の時に両親を失い、まもなく阿波の本家に引き取られた。賀川家はその地方では最も古い伝統をもつ家で、祖父は18か所の大庄屋であった。

▲若き日の賀川豊彦(ウィキペディアより)

 ガキ大将で空想的で心優しい豊彦だったが、賀川家の正妻の子ではなかった(庶子)ために、祖母や義母からは冷たく扱われた。1900年(明治33年)、徳島中学に入学したが、同級生から「芸者の子」と、からかわれたり軽蔑されたりしたこともあり、そのことが心の傷として残った。

 ちょうどそのころ、彼はアメリカの宣教師ローガン博士とマヤス博士に接する機会を得た。教会で毎週火曜日の晩に行われる「創世記」の講義は、豊彦にとっては、暗闇の中に差し込む一筋の光明であった。ローガン博士の清らかな人格と生活から、魂を奥底から揺るがすほどの強い感動を受け、ローガン博士の義弟であるマヤス博士は、いつも暗い顔をしている豊彦のために「どうか、主のなぐさめと祝福がありますように」と毎日祈ってくれた。

 この二人の教師によって、人生に新しい光が与えられ始めたころ、死んだ父親のあとを継いで神戸で事業をしていた兄が失敗し、賀川家は破産してしまった。400年も続いた賀川家の建物はすべて人手に渡り、学資も途絶えた。

 やがて、マヤス博士によって洗礼を受けた豊彦は、徳島中学を優秀な成績で卒業し、1905年(明治38年)4月、上京して明治学院高等学部神学予科に入学した。月々の学費はマヤス博士が援助してくれ、豊彦は懸命に勉強したが、2年生の冬ごろから次第に健康を害するようになった。

 やがて蒲郡の一漁村で療養生活をするようになってからは、病苦と闘いながら、後にベストセラーとなる小説「死線を越えて」を書き始めた。約1年後、健康を取り戻すと、すでに転校手続きのしてあった神戸神学校に戻った。ここでは、恩師マヤス博士が教授として講義をしていたので、熱心に授業を受けた。

 豊彦は闘病生活をしていた時、「どうせ長い命ではないのだから、せめて生きているあいだは、ありったけの勇気をふるい起こして、神と貧しい人たちに奉仕しよう」と考えていた。

 そして、その言葉通り、神戸の貧しい人々が集まる街に入った。三畳が二間だけの小さな家が、マッチ箱をかき集めたように雑然と立ち並んでおり、そこに約11千人の貧しい人々が住んでいた。

 労働者、職人などであり、犯罪者や殺人犯なども紛れ込んでいた。豊彦はそういう街に身を投じて研究しているうちに、住民を悩ましている罪悪や病苦の大部分は、劣悪な労働条件に原因があることを発見した。一生懸命働く者の生活が成り立たないことは、社会全体の大問題である。豊彦は、キリスト教社会主義者、労働者の勇敢なる指導者として立ち上がらざるを得なかった。生きていくこと、働くこと、人間らしくあること——この三つを要求するために。

 そのころの豊彦は、朝5時から青年たちに説教をし、病人たちを見舞い、さらに著述・研究に従事し、午後になると再び病人たちの世話をし、晩には夜学に通い、8時からは街頭に出て説教し、9時半ごろ家に帰った。説教でのどがはれ上がり、発熱して路上に倒れてしまうこともあったが、翌日にはまた咳にむせびながらも「神は愛である」と説き続けるのだった。

 1913年(大正2年)、豊彦は、洗礼を受けた芝はると結婚、二人で協力して働いた。翌年、アメリカへ留学、29か月後に帰国、いっそう伝道と社会救済運動、労働運動に励んだ。やがて、より広く社会に尽くすために上京、宗教の代表者を集めて全国宗教会議を開いたり、「日本を神の国にしたい、日本を神にささげたい」と願って“神の国運動”を全国に展開していった。1922年(大正11年)からは、台湾をはじめとして、中国、カナダ、インド、イギリス、アメリ力などにも伝道に赴いた。

▲賀川豊彦と妻ハル(ウィキペディアより)

 賀川豊彦の宗教は、一言でいえば、愛の実行にほかならなかった。昭和20年、日本が敗戦すると、すぐにマッカーサー元帥に手紙を書き、日本の国と国民を大切に扱ってくれるように頼んだ。希望を失った人々の心のうちに神の栄光をあたえるべく、病身にむち打って伝道・救済の第一線に立った。こうして昭和35423日、東京で72歳の生涯を閉じた。その一生は波瀾万丈であり、多大の価値があった。

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 次回は、「最澄・空海」をお届けします。