2024.02.22 22:00
鑑真
『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。
命がけで真の仏教伝える
芸術や医学の発展にも貢献
さまざまな苦難の末日本に渡り、仏教の正しいあり方を示し、奈良時代の文化全般に広く貢献した名僧・鑑真(がんじん)が唐(中国)の揚州に生まれたのは688年。日本の「大化の改新」の43年後だった。
両親に関しては名前さえも不明で、どんな社会的地位にあったかも分からない。ただ、父親については、仏教の修行、研究をするために、熱心にお寺に通っていたとだけは伝えられている。鑑真が14歳になったある日のこと、父親に連れられて大雲寺というお寺に行った。本堂の壇の上に立派な仏像が置かれていた。仏像は気高く、そして優しくほほえみかけてくる。少年鑑真は仏像をじっと見つめていると心が満たされ、感動に包まれた。「仏さまのそばにいつまでもいたい」。鑑真は出家することを決心した。
父親の理解を得て、鑑真は希望どおりに出家し、大雲寺に住むことになった。ここで厳しい修行をした後、21歳の時に長安のお寺に移り、優れた僧の導きを受けながら、いろいろなお経や戒律の研究に専念、26歳で初めて講座に上がって、律に関する講義をした。やがて鑑真は律宗の第一人者として、律に関する講義を数え切れないほど行い、4万人以上の人を導いた。
鑑真が55歳の時、二人の日本人僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の訪問を受けた。「天皇も皇后も仏の教えを広めるために全力を尽くしていますが、戒律の専門家がいないために、日本の仏教界は大変危険な状態におかれています。どうかお力をお貸しください」。はるばる遣唐使の船に乗ってやってきた日本人僧は切実に訴えた。
そこに居並ぶ弟子たちの中に「われこそは」と言う者が一人もいないことを知ると、鑑真は「私が行くことにしよう」と告げた。「戒律を日本に正しく伝えることは、釈尊の教えを守り、その精神を広めることにほかならない。たとえ海を渡ることがどんなに危険であろうとも、そのためには命を惜しむべきではない」。鑑真のこの決心が、その後の人生をがらりと変えることになる。
鑑真が55歳の743年の3月、いよいよ出発の準備が整ったが、大陸の沿岸一帯に海賊が現れ、出航はできなかった。2回、3回、と幾多の困難の末、753年10月、6回目の試みで、鑑真ら一行24人は出航した。この3年前、鑑真の目がつぶれてしまった。難破した時に海水が目に入ったためであるともいわれるが、苦難の連続による衰弱と疲労も原因だった。
こうしてついに、鑑真は、奈良の大仏の落成式の翌年にあたる同年12月、日本の土を踏むことができた。鑑真65歳、長年にわたる努力はやっと報いられた。足かけ12年、この間に命を失った弟子や同行者は36人、途中であきらめた者は200人以上にも上った。
鑑真らは、奈良の貴族や僧たちの盛大な迎えを受けて都に入り、東大寺の中に住むことになった。天皇からは、戒律を授けることの一切を任せられた。戒律とは、仏の教えを奉じる者が必ず守らなければならない規則である。僧にならない者でも仏教を信じるならば、生き物を殺さない、盗みをしない、男女の交際にけじめをつける、うそをつかない、酒を飲まない——の五つの規則(五戒)を守る必要がある。出家した僧は五戒どころではなく、二百五十戒を守ることを誓わなければならない。戒壇とは、その「誓い」の儀式を行うための特定の壇のことをいう。
754年、日本最初の戒壇が東大寺の前に造られ、天皇、皇后、皇太子、僧ら440余人が、鑑真から初めて正式の戒を授けられた。翌年、戒壇は大仏殿の西側に移され、特に戒律専門の戒壇院という独立の建物となり、鑑真はここで戒を授けたり、律に関する講義をするなど、仏教伝道に全力を尽くした。また貧しい人や病人を救済したり、人々のために全国に80もの寺院を建てた。鑑真は日本の仏教に貢献しただけでなく、彼が来たことによって美術、工芸の分野は飛躍的に発展した。また医薬方面にも知識が深く、医学の祖とも呼ばれている。
鑑真は天皇から、最高に徳の高い僧という意味の「大和上」(だいわじょう)という称号を贈られた。やがて、鑑真は唐招提寺をつくって戒律の修行者や研究者を養成、目覚ましい成果を上げたが、その体は次第に衰え始め、763年、静かに76歳の生涯を閉じた。故郷・揚州ではどこの寺でも僧たちが喪服をつけて心から哀悼の意を表した。唐招提寺の境内には、今も弟子たちがつくった像が安置されている。
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次回は、「賀川豊彦」をお届けします。