2024.02.15 22:00
聖徳太子
『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。
仏教を大切にする
「ほとけの力で国づくり」
聖徳太子は西暦574年(敏達3年)、用明天皇の皇子として大和(奈良県)に生まれました。現在の明日香村にある橘寺は聖徳太子の出生地として知られています。馬小屋の前で生まれたので、厩戸皇子(うまやどのみこ)、また8人の意見を一度に聞くことができたので、豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)とも呼ばれています。
聖徳太子の生まれた飛鳥(あすか)の里は、蘇我氏の勢力が行き渡っていました。蘇我氏はすすんで仏教を信じ、すぐれた文化や技術を持って朝鮮半島や中国から渡ってきた渡来人をとても丁重に扱いました。これに対抗するのが物部氏で、物部氏は代々、天皇家の神まつりを仕事にしており、昔からの日本の文化を守り通そうとしました。
敏達(びたつ)天皇が亡くなると、仏教争いと合わせて朝廷での権力争いでも、(蘇我)馬子と(物部)守屋の仲は悪くなるばかり。587年(用明2年)、天皇が仏教を信じるかどうかで、仏教に賛成する馬子が、仏教に反対する守屋を滅ぼした後、馬子は、朝鮮半島からたくさんの技術者を招いて、立派な飛鳥寺を建立、それにならって地方でも仏教が盛んになって多くの寺が建てられました。一方、聖徳太子は難波(大阪市)に四天王(仏教で四方を守る四つの神)をまつる四天王寺を建てました。
593年、用明天皇の妹、推古天皇が即位すると、天皇に代わって政治を行う摂政(せっしょう)をおくことになり、20歳になった聖徳太子が選ばれました。595年、仏教を広めるために、朝鮮半島の高句麗から慧慈(えじ)、続いて百済から慧聡(えそう)という僧が来て聖徳太子に仏教を教えたり、大陸の様子や自国の役人の制度を話しました。さっそくその制度をまねて太子は十二階の冠位をもうけ、翌年には十七条の憲法を発布しました。
また新しい文化を取り入れるために607年に小野妹子らを隋(中国)に派遣、妹子は隋の皇帝、煬帝(ようだい)に太子の国書を手渡しました。翌年、妹子は国使・裴世清(はいせいせい)らとともに帰国、再び、隋に渡っています。高句麗の僧・曇徴(どんちょう)は絵の具、紙、墨、ひき臼などの製法を伝えました。
推古天皇を助ける摂政として聖徳太子はいろいろな働きをしてきましたが、「政治のことはこのくらいにして、これからは仏教の教えやほとけの力をもとに、おだやかな豊かな国づくりをしよう」と、斑鳩(いかるが)に建てた宮殿に引きこもりました。太子は斑鳩で「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」という、お経をわかりやすく説明した書物を書いたり、馬子と一緒に「天皇記」「国記」という、代々の天皇についての記録や、国の様子を書いた本を著しました。
607年には法隆寺(斑鳩寺)を建て、医薬をつかさどり病気を治してくれる薬師如来の像を本堂の中央にまつりました。政治の前面には出ず、いままで以上に、ほとけの教え―仏教を大切にしていきました。
太子は、斑鳩に引きこもってからは、いつも「世の中はむなしい。ただ、ほとけさまだけがまことである」と口ぐせのように言っていたといいます。仏教を通して、この世の中を平和で豊かなものにしたいと願っていたのです。それと同時に、進んだ国ぐにの制度を取り入れ、日本を天皇中心の新しい国家にしようと力を尽くしたのです。
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次回は、「鑑真」をお届けします。