2024.02.28 17:00
スマホで立ち読み Vol.31
『文鮮明先生の日本語による御言集 1』6
日本歴史編纂委員会/編
スマホで立ち読み第31弾、『文鮮明先生の日本語による御言集 1』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
真のお父様が語られた日本語がそのまま残されていて、当時の雰囲気を味わうことができます。日本に対する真の父母様の深い愛を感じる一冊です。
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一、「神の目的と我々の目的」
1965年1月28日
本部教会(東京都渋谷区南平台)
神の願う基準まで至らなかった先人たち
心情、事情、願い、我々のその生活の基台を環境あるいは社会を考えてみるとき、我々が今侍(はべ)り得るその父母に対して、あるいは生活している兄弟に対して、あるいは社会、国家、あるいはこの世界に対してみても、今まで我々が結んでいるその事情とか心情とか願いというのは、これは本来の真なるそのものではない。汚れておる。
これは一度、終末におきまして裁かれなければならないものである。
人間がそういう立場に立っておるのは、真なる因縁の関係を願い、こういう出発を持った人間ですから、いかに独立性を主張しても、融合性、統一性があったとしても、それはこのサタンの世界におきましての性質であって、神を中心とした属性ではありません。
それはもちろんながら、我々の先祖、あるいは預言者、賢人、義人たちがこの世に来て、「神はおる、人間は善の道をたどって善なる生涯を送らなければならない。
そして善なる人類共同の平和の世界を造らなければならない」ということを主張したけれども、根本的な出発起源を立たせて、打ち明けて、その根源を、間違った所を直すという、あるいはこれを再建する、そういう立場に立って考えた我々の善なる先祖はおりません。
ついて来る、あるいはたどってくる歴史のその過程におきまして、その中におきましての善を、その中におきまして、その現状より少しばかりのそういう善に向かい合えば、それで満足し得るようなその歴史の先祖でありました。
神はそれを願っておりましたか。
もっともっともっともっと、善なる根源の目的にかなう、目的を支持し得る、その善なる因縁とか関係とか願いを、神は歴史を通して今まで探し求め、そしてある時におきましては善なる神の因縁に立ち得るその人を迎えて、善なる関係に向かって造って、そして善なる願いを通しての目的の世界、目的観念を立たせようというその切々なる心を今まで抱いて来たんですが、我々の先祖たちはそれを全然知らなかった。
一つの目的の不変な基準を、その因縁によって、歴史過程において時が過ぎ、時世が過ぎるに従って、すべての人類社会を、神は苦労と共に悲惨な道をたどりながら、それを浄化してこられた。
それに対して、あるところには神が守るところの因縁の深い所をたどる人もいたけれども、しかし人間は因縁だけでは全部ではない。
それにはまた因縁を中心として、生活舞台の関係の世界を結ぶには関係を造らなければならない。
その善なる因縁の一点をたどったその人を中心として、社会あるいは世界に対して善なる関係を結び得るその使命を持つ者が歴史的賢人聖人たちであるにもかかわらず、大概の人は因縁の所に携(たずさ)わって、社会に対して関係を結ぶことができず、そして、その現状の生活舞台におきまして善なる目的を達成し得る強烈なる願いを持つことができなくて、今までの宗教家は皆社会を逃避して、山やあるいは人間のいない所をたどって今まで生活をしてきました。
しかしそういう生活態度では、この全体的目的の中心である創造理想の目的を完成することはできないということは当然なのであります。
だから因縁に立って生活関係を、これをぬいて、そして自分の行動によって願いをかなえる、そうして目的観念を自分の生活事情の価値として立たせて、不変なる勝利者として生きなければならないのが、今までの神が願う宗教家であり、神が地上に送られた賢人であるにもかかわらず、今までの我々の先祖には、そういう神が願うその基点において生活して行った人がいないということは、今まで神がいかなる悲しみ、いかなる苦労をしたかということを、その事態を中心としても考えることができます。
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次回は、「神が求めた人間」をお届けします。