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小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。
 誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。

13話「一緒に歩いてくれてありがとう」

 大分県の由布市と別府市の境に位置する由布岳。円すい形の山容を持ち、「豊後(ぶんご)富士」とも呼ばれ、その存在は古事記にも登場する。西峰と東峰の二つのピークを持つ双耳峰である。

 午前8時過ぎ。ナオミと私は由布岳の正面登山口に立っていた。

 ナオミ14歳の夏。由布岳の麓に広がる大草原の緑が美しい。わずか3週間ぶりなのに、風に髪の毛を揺らす娘の成長した姿がまぶしい。

 由布岳の父娘(おやこ)登山を勧めたのは義母だった。夫のシュウサクと娘のカオリが父娘で歩いたように、私とナオミにも由布岳に登ってほしいと望んだのだ。

 「西峰は上級者コースよ。鎖場も多いし、ナオミちゃんにはちょっと大変かもね。今回は東峰を目指してね。天候も大丈夫そうだし、ちょっと暑いと思うけど、きっと素晴らしい展望に出合えるわよ。復路は飯盛ケ城を経由して下山するといいわ。飯盛ケ城の山頂は私のお気に入りの場所なのよ。ナオミちゃんもおじいちゃんとママが愛した由布岳を満喫してくれたらうれしいわ」

 登山前日、「今回の由布岳登山は、ナオミちゃんにとってこの夏最大のイベントになるはずよ」と、義母は目を細めて語った。

 ナオミも私もそのことはすでに夢の中で確認済みだ。
 巡礼の旅の仕上げとなる由布岳登山なのだ。

 ザックから地図を取り出し、現在地と目的地、そしてルートを確認する。持参した由布岳登山のガイドブックも開く。

 「ナオミ、ここから読んでみて」

 義母の指南も受けて予習は万全のつもりだが、改めてガイドブックに掲載されている山行日記を読むことで、緊張が和らいだ。

 心と頭と、そして体をほぐしていよいよ登山の開始だ。

 カオリが愛した山、由布岳。
 祝福の時のプロフィールの趣味欄に「登山」と記したその原点がこの山なのだ。

 「パパ、今日は4人で歩くんだよね。パパと私、そしておじいちゃんとママの4人…」

 ナオミを見ながら、義父と一緒に山を歩く14歳のカオリの姿が重なる。

 夏の登山。午前中から気温は高かったが、緑の大草原を走る風は心地よかった。

 前方に由布岳、左手に飯盛ヶ城を見ながら草原を進む。樹林帯に入るまでの数十分の間にすでに全身が汗ばんでくる。どんな山でも最初の登りは体がなじむまでは我慢の時間だ。

 「ナオミ、山歩きはしんどいだろう? だから楽しいんだよ」と息を切らしながら、すぐ後ろから付いてくる娘に語りかける。これは自分に言い聞かせる言葉でもある。

 樹林帯に入る。倒木や石に苔(こけ)むす深い森、一方で陽光に輝く緑がまぶしい。未知の世界にでも迷い込んだかのようだ。

 しばらく行くと、九十九(つづら)折りのジグザグ道が始まる。
 父と娘は黙々と進む。その分、思考が急速回転する。心の感度が強くなり、カオリや義父の存在感が増してくる。

 樹林帯を抜けると、徐々に目の前の視野が広がった。下界の様子も見渡せるようになる。眼下には一面草原に包まれた飯盛ヶ城を捉える。山名のとおり、ご飯を盛ったようにこんもりとした山容だ。巨大な墳丘墓のようにも見える。

 傾斜もきつくなってくる。ゴロゴロとした岩の多い道を登り切ると西峰と東峰のマタエ分岐に到着する。
 義母のアドバイスどおり、今回は東峰を目指す。

 西峰ルートのような鎖場はないが急坂であることに変わりはない。気持ちを引き締めて山頂に向かう。両手を使って、3点確保の基本を実践する。登山は安全第一だ。

 「ナオミ、もうすぐ頂上だよ。ステップ・バイ・ステップ。一歩一歩、進もう」

 ナオミに呼びかけながらも、これも自分を鼓舞する言葉だ。

 「パパ。合言葉は、登れない山はない、だよね」

 ナオミもテンポよく返す。

 いよいよ二人で由布岳東峰の頂上に立つ。…いや、四人のはずだ。

 トップ・オブ・ザ・マウンテン。
 夏の空が広がる。紺碧(こんぺき)の空と、ソフトクリームのような夏雲の白のコントラストが鮮やかだ。

 絶景の展望。360度のパノラマとはこういうことをいうのだ。
 ナオミも饒舌(じょうぜつ)になる。長く続いた緊張がほどけて中2の素顔がはじける。

 「わあ、すごいねえ。気持ちいい~。感動! 由布岳、最高~」

 苦労して登った分、ご褒美の喜びも大きい。くじゅう連山もはっきり見える。雲の上から下界を見下ろすかのような眺望だ。義母が住む湯布院の町も眼下にくっきりと映し出される。

 義母が用意してくれたお弁当。狭い頂上を避けて、マタエ分岐まで下りて、山で淹(い)れたコーヒーと一緒に味わった。

 「おばあちゃんも一緒だね」

 ナオミはいいことを言う。義母が聞いたら、どれほど喜ぶだろう。
 義母の満面の笑みがマグカップのコーヒーに映る。

 下山ルートでは、義母の勧めのとおり、飯盛ヶ城に向かった。
 途中、思いがけず鹿の群に遭遇した。逃げるそぶりも見せない。5頭の鹿の群れは私たちの前を堂々と横切った。

 ナオミが興奮しながら小さく叫んだ。
 「おじいちゃんとおばあちゃんと、パパとママとナオミの5人だ!」

 再び登り直す格好で飯盛ヶ城の山頂方面に向かう。
 東峰が1580m、飯盛ヶ城は1067m。その差は533m。二つの山は親子のように寄り添っていた。

 飯盛ヶ城の山頂に夏の風が吹き抜ける。日差しは強かったが、由布岳を眺めながら私はナオミと話したかった。

 「ナオミ…」と呼びかけようとした時だった。

 「ママ…。ママは湯布院で生まれて、ずっとこの山に見守られながら大人になったんだよね。私ね、すごく寂しかったの。ママとの思い出が少なかったから…。柴野のおじいちゃんもおばあちゃんものことすごく愛してくれてる。ママのお父さんとお母さんのことも大好きだったけど、でもなんか今まで遠かったんだよね。ママのこと、もっと知りたかったし、おじいちゃんとおばあちゃんのことも知りたかった」

 ナオミは祈るように由布岳を見つめている。

 「ママ…。夏休みに湯布院に来れてよかったよ。おばあちゃんとたくさんお話できたし、おじいちゃんが死んじゃったのは悲しかったけど、でも、おばあちゃんがおじいちゃんやママのこと、たくさん話してくれたんだよ。ママの通った学校にも行ってみたし、ママがよく立ち寄ってた本屋さんでおばあちゃんに本を買ってもらったよ。日曜日には家族で教会のミサにも参加してたんでしょ? おばあちゃん、すごくうれしそうに話してた。イエス様やマリヤ様のことも話してくれた。大分のキリシタンの人たちの殉教の話も聞いたよ」

 私もナオミが見つめる由布岳に体を向ける。そこには少女時代のカオリがいた。義父と義母のまなざしに映る一人娘の姿だ。

 ナオミは保温された冷水で喉を潤した。

 「パパ、ありがとう、巡礼の旅…。ママもおじいちゃんも、そしておばあちゃんも、いつも一緒にいるんだなって、思えた。すごくうれしかった。山登りもずっと一緒だった」

 「ママとおじいちゃんが?」

 「うん、ママもおじいちゃんも、ずっと一緒に歩いてくれていたよ。ママとおじいちゃん、いい感じだった。ママとおじいちゃん、すごく仲がいいなって、思った。ママが言ってたよ、由布岳を一緒に歩いてくれてありがとうって」

 「そうなんだ。おじいちゃんとママが導いてくれていたんだね…」

 私は由布岳を見つめたまま、カオリと義父に向かって、何度もうなずいていた。

 「パパ、ママがね、褒めてくれたんだよ、自分の足でしっかり歩けたねって」

 「そっかあ。頑張ったもんな。パパもナオミの歩きっぷりには感心したよ。きっとママみたいに登山が趣味になるんじゃない?」

 カオリはナオミの心の成長を喜んだのだ。祖父母に関心を寄せ、孫としての愛を投入するナオミの精誠がカオリの心を動かし、地上と霊界の境を超えさせたのだ。

 登山口に戻ると、意外にも義母が待っていた。

 「おかえりなさい。お疲れさま。カオリの由布岳を満喫してくれたかしら?」

 「うん。おばあちゃん、おじいちゃんとママと一緒に歩いてきたよ。おばあちゃんもずっと一緒だったよね」

 目頭が熱くなる。
 義母は満面の笑顔でナオミを抱きしめた。

 「さあ、タカシさん、湯布院の温泉で汗を流しましょう。温泉にはおばあちゃんも一緒に入るわよ、ナオミちゃん」


登場人物

●柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
●柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
●柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘
●柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
●柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
●宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
●宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母

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 次回もお楽しみに!

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