https://www.kogensha.jp/shop/detail.php?id=4219

孝情を育む 10

 『ムーンワールド』で連載された、蝶野知徳・家庭教育部長による子育てに関するエッセーを毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 孝情を育む子女教育について、どんな姿勢で向き合えばいいのかを分かりやすく解説しています。

家庭教育部長 蝶野知徳

人と比較するということ

愛のためにある感性
 私と神様との関係に焦点を合わせ、その関係を中心に生活していれば、比較対照のない世界に入ります。つまり他の子女や家庭との比較で心をわずらわせることはなくなります。堕落の動機と経路で学んだとおり、天使長が持った愛の減少感は、自分に対する神様の愛を人間と「比較」したから生じたのですが、もともと「比較」も「減少感」も創造本然の能力であり感性です。本来、受けた愛の差を比較する能力は、神様が関係性の中で敢えて見せてくださるものを通して愛の刺激として発動するのです。つまり「愛のため」にあるものなのです。

 それらが堕落による責任分担不履行により、愛のために用いる感性を喪失しました。自分の家庭よりも他の家庭が良く見えて心情が下がったり、自分の家庭のほうがうまくいっていると傲慢になったり、人との間で責任を比較し、罪の所在を追及したりすることも、全て堕落性が体現されてしまったものなのです。

 「親の実体が大切だというけれど、あの家庭はうちの家庭よりも夫婦仲が良くないですよ。けれども子供が素直そうで、教会にもよくつながっていますよね。これを見ると、親の実体はあまり関係ないということになりませんか?」

 「私たち親子のほうが、あの家庭よりも親子で話をして関係もいいはずなのに、うちの子は信仰を嫌がっています。この問題は親というよりも、教会の教育の問題じゃないですか?」と自分に向けられた責任から逃れるために、他の家庭と自分の家庭とを比較して、その言い訳を探しているような例もあります。

 ここで大切な点は、責任を逃れたいという態度と、愛していませんという態度は同じものになってしまうということです。他の家庭と比較することによって、自分の責任分担が無くなるという原理はありません。その子女の親は自分なのであり、私が子女を愛するということに変わりないはずです。

一対一の関係でこそ実感
 原理的な分別がなければ、こういった姿勢は全て「私の責任(私の責任分担)」が隠されていく方向に働きます。神様との関係や原理が無視され、人との比較や分析を通して、自分の責任を果たそうと考えますが、それは既に責任を離れているので、戻ることはできないのです。私たちはそれらを、天使長の堕落の動機を通して、私の中にもある誘惑の性質として学んできたはずです。もし恵みがあったとしても、それが比較することによる喜びや復興によるものである場合には、必ず影が生じるのです。

 神様も私たちに他人と比較した愛で応えられることはありません。私たちの子女も、比較のない、一対一で見詰める愛の関係でこそ、愛されている実感を得てゆくはずです。

---

 次回は、「夫婦相対祈祷 子女のための祈り」をお届けします。


◆「孝情を育む」が書籍になりました! タイトルは『子女と向き合うことは神様と向き合うこと』
 ご覧になりたいかたはコチラ