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小さな出会い 20

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「小さな出会い」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭の中で起こる、珠玉のような小さな出会いの数々。そのほのぼのとした温かさに心癒やされます。(一部、編集部が加筆・修正)

天野照枝・著

(光言社・刊『小さな出会い』〈198374日初版発行〉より)

否定期

 「今、一番なにが欲しい?」

 と聞くと、

 「“健康”が欲しいわ!」

 とため息のまじった声で友だちが答えました。

 私はその気持ちがよくわかるんです。何年か病気をしたし、何回か入院もしたし。そして、まちがいなく健康というものは、幸福の大切な要素だと思います。

 やわらかい心と元気な身体(からだ)さえあれば、苦労しても、それが人間としての栄養になるような気がします。だけど、大切な時に、身体がいうことをきかない辛さは、底知れない罪悪感となっておしよせる。——病気になって、参ってしまうのはこの自責の念が強い時です。

 人生には否定期と肯定期があるんだ、という話を、いつか誰かから聞きました。本当にそういう時期があるものです。誰に責任転嫁することもできないのに、苦しい時の人間の心は、何て悲しいおろかな恨みが渦まくことか。闘病のころ夜中に目をさまして、さましたその瞬間にぼろぼろっと涙がこぼれたことを思い出します。

 そして、それを見ている健康な人たちも辛くて、かわいそうに思ってでしょうけど、

 「あなたのこういう心がけが病気をつくるんじゃない?」とか、

 「神様があなたに対して急(せ)きこんでいるから、そんなに咳(せき)が出るのよ!」

 とか、言ってくれるのです。その通りだと思いながら、責められているような焦りに焼かれていく日々。ああ、健康な人たちの強さと自信にあふれて振りおろす刀の切れあじの鋭さ。そのようにして切られることが必要なのかもしれない、きっと明日のために否定されているのだと信じて越えていくしかない、人生の否定期……。

 三番めの子供を生んだ頃に、私は、自分にとっては長かった身体の不調から抜け出しはじめたようです。ものを食べても味があり、夜、休んでも身体が落ちこまなくなっていきました。

 健康が欲しい、としみじみ言っていた友人は、ある治療がとても効(き)いた帰り道、

 「はじめて歩いていて自分の足で道を踏んでいる実感があったのよ。それまで雲の上を歩いているみたいだった」

 と話していました。

 「私、このごろ底力(そこぢから)が出てきたのよ」と言ったら、その一言がどんな言葉にも増して強烈で、毎日思い出すのだそうです。底力が出てきたんですって。ああ、いいなあ。私も絶対そう言えるようになろう——と。

 人はそれぞれ、自分の課題にとりくんで生きているんですね。人の苦労は自分の苦労とは違うけれど、みな、逃れることのできない課題をもちながら懸命に歩いているのだなあと思います。

 そして私は、今、わずかに“底力”を感じられる身体になってみて思うことがあるのです。それは“あのくらいですませることができたなんて!”という感慨。本当はもっと悲惨な災厄がくるはずだったのに、大きな確かな力が私を守っていたからあれですんだのだ、という実感なんです。

 不思議ですね。だから、いろいろ言ってくれた人のことも、入院の費用がなかった辛さも、今はなつかしいのです。

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 次回は、「テープレコーダー」をお届けします。