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小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。
 誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。

10話「おかえり、ナオミ」

 カオリの父シュウサクの葬儀はしめやかに行われた。カオリの母シホを大分の家に一人残すような格好となり後ろ髪を引かれる思いであったが、私たち4人はひとまず帰京した。

 カオリの遺影の前に朝の食事を供えながら、私の母はカオリの母への思いをつぶやくことが増えた。
 シホの心の寂しさがタツコの心から離れなかったからである。

 数日が過ぎ、気象庁が「関東甲信地方が梅雨明けしたとみられる」と発表した頃、夕食の席でタツコが私とナオミに相談したいことがあると話し始めた。

 「ナオミちゃん、もうすぐ夏休みが始まるでしょう? 部活や教会のことで忙しいと思うんだけど、今年の夏はシホおばあちゃんの所で過ごしたらどうかしら」

 小学校6年生の時までは、夏休みは祖父母とナオミの3人で青森の実家で過ごすのが慣例となっていた。
 しかし中学生になってからはそうもいかなくなった。部活や教会学校のイベントが忙しかったからである。

 「タカシも時間が取れるなら、大分のお義母さんの所でお盆休みを過ごすのもいいんじゃないの? 今年は青森に来なくていいのよ」

 母はすでに父とも、そしてカオリとも相談済みなのだろう。
 そうするのが一番いいのだと、結論は決まっていた。

 異論を唱える余地はなかったが、一応父親として娘に確認してみる。

 「ナオミはどう? 大分のおばあちゃんのことも気になるし、パパは5日くらいならなんとか休めそうなんだけどね。“善は急げ”というし、ナオミは夏休み中は大分のおばあちゃんと一緒に過ごしたらどうかな?」

 「そうだね。パパがいいなら…」

 部活や教会学校のイベントを休むのをお父さんが許してくれるなら、という意味だ。

 ナオミは中学では美術部に所属している。夏休みの課題は大分のおばあちゃんの家でもこなせるはずだ。何しろ、カオリの母親は美術の教師をしていた人なのだ。ナオミが絵のことを教えてもらえる良い機会にもなるだろう。
 教会学校のイベントは大事だが、今は義母に寄り添うことが、私の母の提案のとおり、私とナオミが最優先すべきことなのだ。

 「大分のおじいちゃんにママのこともっと聞いておけばよかったね。私も一人娘だけど、ママも一人娘だもんね」と、ナオミの気持ちはすでに決まっていた。

 「そうだね。この機会に大分のおじいちゃんのこと、ママのこと、おばあちゃんのこと、いっぱい聞いてこよう」と、私自身もナオミが大分で長期間過ごすことの意味を見いだし始めていた。

 信仰の問題が親子の心の距離を遠くしていたのかもしれない。
 娘を思う義父の気持ちは、私も娘を持つ父親として少しは分かっているつもりだ。今さらながら義父の娘を思う心情の世界を知ってみたいと思った。

 「ナオミ、大分での夏休みは巡礼の旅になるぞ」

 「巡礼? お墓参りのこと?」

 「お墓参りだけじゃないぞ。巡礼だよ。大分のおじいちゃんやおばあちゃん、ママの思い出の場所をたくさん訪ねるんだ」

 来年はナオミも受験生だ。思春期ど真ん中のナオミが母親の生まれ育った場所でゆっくり過ごせる機会は今しかない。これはきっと、天が与えてくれた時間に違いない。

 「ナオミ、大分のおばあちゃんにママの子供の頃の話や、中学生の頃の話もたくさん聞いたらいいよ。ママは高校生まではカトリックの教会に通っていたんだよ。おじいちゃんとおばあちゃんは敬虔(けいけん)なクリスチャンなんだ」

 ふいにカオリの両親に最大の敬意と感謝を表したいという衝動に駆られた。
 カオリは両親の愛と信仰によって育まれ、そのカオリと私が出会ってナオミが生まれたのだ。

 私はナオミのことを両親に任せきりにし過ぎたと後悔していた。ナオミにカオリの人生の証しをもっと伝えるべきだった。それはナオミがこれから生きていく上で最も必要なことなのだ。

 私は父親として娘にもっと向き合わなければならなかった。義父の死がきっかけで、苦い思いが心の底を濡らすようになっていた。それは義父が私にくれた魂の良薬だったのだ。

 ナオミの巡礼の旅は、義父の導きによってもたらされたものではないか。母と娘が再会し、その絆を再生するための旅なのだ。

 ナオミが夏休みに大分で過ごすことを、義母は喜んだ。

 配偶者との死別による悲しみは深かったが、それ以上に、カオリが遺した一粒種のナオミと長く過ごせる時間が与えられることは義母にとって大きな慰めとなった。

 夏休みに入って間もなく、ナオミは羽田空港から一人大分空港に向かった。ひと月余りの滞在だが、荷物はスーツケースとリュックが一個ずつで納まった。

 大分空港から由布市湯布院町までは高速バスで移動する。大分空港では祖母が待っていた。

 「ナオミちゃん、よく来てくれたねえ。おばあちゃんうれしいわ」

 葬儀の時からまだ数日しかたっていなかったが、久しぶりの再会を果たしたかのように義母はナオミを強く抱きしめた。カオリの故郷の匂いがナオミを包み込んだ。

 「おばあちゃん、大丈夫? おじいちゃんのこと、すごくつらかったよね?」

 「…そうね。もちろん、つらい気持ちはあるわ。でもね、おじいちゃんはおばあちゃんのここにいつも一緒にいるのよ」

 義母は左手を胸に当てながら、もう一方の手でナオミの手を取り、二人の手を自分の胸に重ねた。

 「ナオミちゃん、今年の夏休みは、あなたのママが生まれた湯布院を楽しんでね」

 「そうだね、おばあちゃん。ママのこと、おばあちゃんのこと、おじいちゃんのこと、たくさん知りたいな」

 高速バスの車窓から差し込む太陽の光も、流れていく風景も、今まで見たものと全く違うもののように感じてナオミはつぶやいた。

 「日本じゃないみたいだ」

 義母はナオミの片手をずっと握ったままだ。ナオミはなぜか自分のことを初めて訪れた異国を旅する少女のようだと思った。宮崎駿のアニメの中の登場人物にでもなったような気分だった。

 湯布院に着き、バスターミナルからタクシーに乗り換えて義母の家に向かう。カオリが生まれ育った場所だ。
 湯布院は温泉地だ。外国人の観光客も増えている。ナオミは、眼前に迫る雄大な由布岳の存在感を以前見た時よりも大きく感じていた。

 カオリが生まれ育った家は由布岳がよく見える場所にあった。
 午後の日差しを受けながら、その山は真夏の雲を背景に神秘的な光の衣をまとった姿でナオミを迎えた。

 玄関で鍵を開ける祖母を見守りながら、ナオミは深く深呼吸する。玄関のドアを開けてナオミを手招きする祖母。
 ナオミは別世界への門をくぐるように玄関のたたきに立った。

 「ただいま、おじいちゃん、ただいま、ママ」

 「おかえり、ナオミ」

 振り返る祖母の笑顔と共に、二つの声のハーモニーがナオミの胸に響いた。


登場人物

柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘

柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母

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 次回もお楽しみに!

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